人間社会の情報化の加速は右脳の働きに過ぎない
地球と言うものをひとつの大きな意識体、あるいは生命体として捉えることはできる。
すると、人類が加速させてきた今の情報化というのは、あたかも脳のニューロンが活性化しているようなものだ。
理屈を考え、計算をし、地球は右脳を忙しく働かせている。それが人間世界の情報化だ。
それは結局、地球というカラダを無駄に動かしてきた。
少し落ち着こう。
少し疲れてきた。
地球はちょっと疲れているようだ。
そんな疲れた時、我々個人なら瞑想とか、無心になるようないわば左脳の働きが必要になる。
地球というひとつの生命の塊、その心を落ち着かせる働き、それが今、必要だ。
人間の情報化の進んだ暮らしがある一方で、相変わらず昔ながらの生活を営む生物がいる。
家の軒先で、里山で、アマゾンで、アフリカのサバンナで、微細なミクロの世界で、他の動物や植物などの生命の活動がある。本能によって生きている生命がある。
それはまるで地球にとっては、我々ヒトの脳にとっての左脳、いわゆる「使われていない脳」と呼ばれる部位の働きに当たることだろう。
地球という意識体にとっての脳味噌。
右脳は人間の世界での情報化だ。
そして他の大部分を占める、左脳や使われていないように見える脳の他の部分は、人間以外の生物の活動に当たると言える。
事実、人間の人口よりも、人間以外の生命体の方が数としては圧倒的に多い。
人間の脳の場合でも、使われている脳より使われていないように見える脳の部分の方が圧倒的に大きいとされる。
地球上の人間以外の生命を、我々ヒト個人の脳に置き換えるなら、他の生命体の活動は左脳、つまり「直感」とか「第六感」というものにあたる。
人間が情報化を加速させ忙しく活動し、右脳として我々人間が地球というカラダを制御しているつもりでも、直感をつかさどっている左脳がなければ実は生きてゆけない。脳が死ぬ。
人間以外の生命の動きが大事なのだ。
我々が「直感」を大事にするように、他の生命体の声に耳を傾けるべきではないか。
論理的な帰結だ。
そう考えると、我々が希少動物や植物を尊重すべきことは、言われていることよりも別の意味があることが分かる。
なにも人間が偉いから希少な生命を保護すべきというわけではない。
人間が気高いから生物の多様性を庇護する役割があるわけではない。
我々が生き延びるために、地球として我々は他の生物を尊重しなければいけない。
一人の人間が、理屈ではなく第六感を尊重することと同じことだ。
個人の無意識の動きと同じで、地球には右脳で飛び交うニューロンの働き以外、本能や直感という左脳の働きも大事だからなのだ。
右脳の判断だけでは満足に動くこともできない。
両手両足が同時に前に出てしまう。自動車の運転もできない。
左脳がつかさどる直感や本能に頼らなくては、我々も地球も生きてゆけないのは同じだ。
人間以外の生命体は、地球といういわばカラダにとっての左脳だ。
左脳は利き腕を決め、カラダを動かし、インスピレーションそのものを与える。
人間以外の生物は自然に従い、直感と本能によって生きている。
地球がひとつの生命であれば、我々という右脳は、別な脳の部位の働き、他の生命体を邪魔してはいけないことになる。
地球の右脳である我々人間の情報化は混乱を作り出している。
左脳の働きがますます必要になってきた。
人間以外の生命体の存在の方が地球にはますます重要になってきた。
人類の作り出す情報化は、地球にとっては錯乱の種だ。
このままでは地球が欝になり病んでしまう。
人間ひとりの命は、情報化によって軽くなったかも知れない。
「ヒトの命」が、何よりもかけがえのないものであった時代はとっくに昔の話なのかも知れない。
今は人間ひとりよりも動物、植物の命の方が地球には貴重なのだ。
そこで今回の新型コロナウィルスという生命体の出現は示唆的だ。
もはや人間の命は優先されるなどという理屈は成立しない。
ヒトの命は軽くなった。
我々は今や、人権主義の欺瞞を知り、ヒューマニズムの独善をさえ知っている。
もし、人間が地球の一部であることを信じるなら、ヒトの命が尊重されるなど考えてはいけない。
我々はひとつの細胞として本能から自分を守るだけだ。
政治は人命優先などと欺瞞するな。
法によらずヒューマニズムや道徳でコロナ拡大を阻止することはできない。
メディアは人命優先が当たり前のように取り繕うな。
中国の虐殺に目を瞑るくせに、ご都合主義にコロナ感染の死者を問題にするな。
コロナの死者数は問題ではない。
それが「ウィズ・コロナ」の真実ではないか。
おそまつ
