自然の前には人間はなんと小さな存在か
熱意のあるコメントをいただきとても感謝しています。
せっかくのコメントが埋もれたり目立たなくなってしまうと困りますので、ここに引用し、公開させていただきたいと思います。
もし支障がございましたらお知らせください。
地球上の海が暴れたら、大陸なんて島なんて、飲み込まれてしまう。
それなのに、人間は自然と共存しようとしない…
災害のあとのゴミを見て思います、あれらは人間が作った粗大ゴミだと。
自然にかえるような便利なものを開発して暮らせば、災害で出たごみも自然にかえる。
何度繰り返したらそこに気づけるのだろう…
といいなんがら、わたしもそういった製品で暮らしているわけです。
誰か地球にやさしい商品開発をしてくださーーーい。
それにしても、自然と共存する暮らしが必要ですね。ほんとに。
(コメントは以上です)
アタシが思うに、誰しもこのような時、つい嘆息してしまうことがあるのは、きっと被災地の姿を見て、そこに理不尽な思いを感じてしまうから。
しかし昨日も書きましたが、アタシはそこに明るさを感じるのです。
日本の豊かな自然に抱かれている我々です。
だからこそ味わう困難だとしたらそれは幸せなことかも知れません。
それは決して悲劇ではないのではないか。
自然と向き合って生きることを実感できる、とても有意義な時間なのではないか、と。
そう私は思います。
夜中、寝返りをうった嫁の脚がアタシの胸に乗っかったとしても、アタシはきっと苦しいでしょうが悲劇や苦痛ではありません。
「ちょっと困ったなw」、
これです。
そしてアタシは重いと寝ぼけながら少し考えたりするのです。
「これ、どうしよっかナ」と。
自然と共存するということとは、こんな感じにアタシには思えます。
人間の築いてきた文明というものは、自然にとってはゴミです。
しかし木が朽ちたり、落ち葉が腐ればそれもゴミです。
問題なのは、我々人間の作るゴミが自然のサイクルよりは少し長くなってしまうこと。自然のサイクルと我々の作り出すゴミのサイクルが調和できていないということです。
地球がくれた石油資源を加工精製して作ったビニールだのプラスチックなのに、なかなかまた自然に還ってくれないことです。
そのことは考えなくてはいけません。
でも、もし石油を利用しなかったとしたら、そんな石器時代が続いていたとしたら、ある日火を吹く場所が大地に出現し、そこから年がら年中、制御できない炎と黒い煙を空に吐き続け、きっと空は真っ黒になっていたことでしょう。
このエネルギーを転換し利用てきたことで、私たちの文明も地球の役には立っているはずです。
長いサイクルで考える責任感は必要かも知れませんが。
そうして私たち全ての世代が、未来の世代も合わせてこの人類の役割に対して責任を取っていく。
私は、自然が修復可能なようにしておくこと、それが自然と付き合ってゆくことなんじゃないかと思ったりします。
要は、嫁を起こさないようにして脚をどかすということです(笑)。
我々の文明の生産物が自然の循環サイクルには乗らないこと、そこに我々はストレスを感じます。
それは自然を蹂躙しているように見えるし、今回のような災害はそのしっぺがえしのように思えたりします。
そして無残な残骸を見ると、私たちのしてきたことは全てがムダで、まるで誤りであるかのように感じてしまいます。
自分たちの文明の残骸を見れば、足の踏み場がないほどに感じてしまうのです。
だからこそ、このガレキを片付けるのは、とても前向きなことなのだと私には思えます。
それが次に踏み出すためのエネルギーになるのだと私は思ったのでした。
それが昨日の記事に書いたことでした。
太陽のコロナが、ちょっとだけ大きなクシャミをするだけでそれは「スーパーフレア」です。
それだけで我々人類、地球上の生物など死滅してしまう影響があると言われます。
私たちは地球のことを心配などしようもない。
私たちのためにやるべきことです。
地球は、決して死にまっしぇぇぇぇーーーんっ!w
古っw。
おそまつ
