九州、長野、豪雨被害を癒す振り返りのこと
今回の豪雨は、九州は熊本から帯状に伸びた前線が停滞し続け、長野にまで被害が及んだ広汎なものでした。
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豪雨被害はまたも大きな爪跡を残しましたが、率直に言って悲惨さは感じません。
私はつくづく感じることがあります。
それは日本人は豊かな自然とともに生きてきたのだということ。
アメリカでハリケーンか何かがあって、その現場の映像が映し出されます。
みなが泣き叫び、絶望し、壊れてバラバラになった自宅の前で号泣している映像が流れたりします。
ああいう光景は日本では稀です。
誤解を怖れずに言えば、日本の場合、みなどこかニヤニヤとしている。
穏やかにインタビューに答えてたりします(笑)。
「もうこの家は住めんねw」なんて。
照れ笑いのようにしている人もいたり。
泣き叫ぶ人ような人というのはあまり見たことがありません。
絶望などない。素晴らしいことだと思います。
これを民度というのはたやすいでしょうが、我が国の人々が長い歴史の中で自然と共存してきたことがあるのでないか。
勝手ながら私はそう感じてしまいます。
自然には勝てない、逆らえないという達観、だからこそ静かに受け止めるしかないという、そんな日本人の心があるのではないか、私はそう思ったりします。
豊かな自然に包まれて暮らす私たちは、自然を呪うことなどはしません。
自然の力には怖いこともある反面、その恵みもあって私たちは生かされているからです。
自然の恵みのありがたさを振り返り、私は思います。
ネットの書き込みには、時に幼稚に思えてしまうものもあったりします。
豪雨被害の映像とともにつけられたコメント。
「こんな(映像)の見たら税金なんか払いたくなくなるね」というのがありました。
真意はよく分かりませんが、「税金を払っているのだから豪雨で被害に合わないように治水してくれよ」そういう意味なんでしょうか。
あるいは民主党系がダム建設を目の仇にして中止させ、治水政策まで放棄していたという事実からの発言なのかも知れません。
そのことなのでしょうか。
しかし、税金を払おうとなかろうと豪雨は止められません。
できるだけやったとしてもダメだったという場合もあります。
天を恨んでもしょうがない。
何かできることがあるだなんて、人間の驕りかも知れない。
自然を無理にねじ伏せようとすれば、またどこかに歪みが生じるかも知れません。
旧民主党、立民の連中が政治家としておかしいということは分かりますが、それと自然災害や治水というのはまた別の議論です。
もちろん、これは現地の人々の発言ではないんでしょうけれども。
おうぞどだいじに
