ポジショントークの本質とは何か
面白い映画を見ました。
☆
とても痛快、人間の生命力、生き残りの映画。
ヤフーのGyaoという映画配信サービスがあって、そこで観ました。
ディファイアンス(Defiance)という映画でした。
実話を元にした映画だとか。
ヤフーの会員登録をしていると無料で見られると思います。配信に期限はあるようですけれども。
007のダニエル・クレイグが主演。彼はロンドンオリンピックの開幕式でもエリザベス女王と一緒にショーをやりました。
映画を観終わって、レビューサイトを見てみると、ずいぶんとケナしている人たちがいるようで不思議でした。
そんなに言われるほどひどいか?
すると、嫁によればそれは「わけの分からないイチャモンばかり」なのだといいます。
そしていわく、「そういうケチをつけるだけの人がいるのよ」と言う。
鬱憤晴らしにコキ下ろすのがいるのだ、と。
私もそうしたレビューを読みましたが、それは違うだろうと議論になった。
嫁の悪いクセです。
すぐに早合点しようとする。他人のことだと簡単な想像で片付けようとする。
私はこれが気に入らない。
人間のことは人間が最も注意深く知ろうとすべきことだ。
彼らがコキ下ろすことが鬱憤晴らしとは私には感じられない。
無意識でも意識的にせよ、そこには必ず動機がある。
連中の必死さ、その心理を想像をしてみろ、と私は言った。
これこそが本来のポジショントークの姿とも言うべきなのだ、と、そう私は教えた。
彼らには無意識の反発がある。
もちろん反発ばかりではない。反対のことだってある。反論する嫁に私は言った。
それを「付和雷同」と言う。
映画ではリーダーに依存し、求めるだけで自分からは動こうとしない大衆が描かれています。
彼らは自分で動かず、なるようになるしかないと、ただじっとするばかり。
そうしてリーダーに要求をするばかり。
そういう烏合の衆、大衆の姿が描かれています。
要はこの描写に反発したポジショントークです。私はそう思う。
それを感じようとせず、「ただのヒネクレた人たちの言いがかり」で片付けてしまうのはあまりに薄い。人間に対する理解としてはもったいないことだ。
自分たちも同じ大衆だから、描かれたその姿に無意識にも反発し、つい難癖をつけてしまうということ。
あたかも条件反射なのです。
やれマスクが小さい、やれ到着が遅い、給付金の支給が遅い、検査してくれ、休業補償をくれ。なんとかしろ。
すべてがリーダー任せではないですか。
生き残ろうとするなら自分で何かをしなければならないはずです。
それがマスコミと一緒になって不平不満ばかり、自粛生活でますます鬱屈してゆきました。
なぜ新しい法律がコロナのためにできなかったのか。
なぜひどい差別発言をしたタレントが見過ごしにされ、差別反対だのと、「差別のほとんどないわが国」でデモなどやらかしているのか。
彼らは大衆として群れ、自分で考えた行動をしない。
何も「ポジショントーク」とは自分の利益のために口裏を合わせることばかりではない。
自分が買っている株を持ち上げたり、有望だと人にも同意させようとするばかりではない。
自分の親が教員だからと、クソ教師の不祥事になぜか口ごもる、そればかりではない。
これらは確かに典型的なポジショントークではありますが、これらはむしろ例としては少ないものです。
集団がその愚かさや醜悪さを描かれると、まるで鏡を見させられたようにして反発します。
そういうポジショントークの方が多い。
現実を見ようとしないで誤魔化そうとする反発や同調、そういうポジョントークの方が圧倒的に多い。
彼らは見たくない、自分たちの姿を知りたくないのだ。
そして一番の特徴的なことは、彼らは自分というものを決して変えられない、変えようとはしないということ。
そうして彼らは依然として大衆であり続けようとするのです。
なぜなら自分で動くことはしたくない、自己責任を嫌うから。
だから彼らは「大衆」というものであり続けるしかないのです。
「そこまでこの人たちが考えているとは思えないけど」なんて、嫁。
それは無意識のことだ。私は断言します。
条件反射的に不快感を持ってしまう。
大衆は自らを大衆とは自覚しないが、大衆であることは決して否定しない。
権力から唾を吐かれても、その大衆はその侮辱に気がつかないことだってある。
まず反発する前に、「お前ならいったいどうするか」と考えることをしない。
銃を持っているかもしれない黒人が、暴れたらどうするか。
押さえつけたりするなというなら、自分が警官だったらどうするのか。
大衆はたやすく誘導されてしまうし、扇動に弱い。
だから一貫した行動をとらない。
悪意ある扇動や誘導にいいように動かされてしまう。
自分で考えることがないから。
それでは生き残ることはできない。生きた価値を残せない。
まあ、短い命です。
生き残ったからと言ってどうということもないかも知れません。
生存する本能を捨てて、人間として生きようとせず、ひたすら従順に従う虫のような存在でもいいのかも知れない。
私は虫だって水溜りで溺れていたら掬い出してあげますww。
ただし時々なら。
おそまつ
