消耗したらどうするか
少し長くとりかかっていたことがやっと片付いた。
☆
終わったときはフラフラになっていた。
三ヶ月ぐらいそれこそ毎日、休まずに取り組んだが、結果はどうなるかは分からない。嫁も手伝ってくれた。
息抜きはブログの更新ぐらいだった。
気分転換、考えが硬直化することを防いでくれた。
ちょうどコロナ騒ぎの最中だったので、ほとんどコロナなど関係なくなってしまった。
疲れた。まだ疲れている。
腰はまだガタガタだ。
ここのところダルい。
やり切ったのでもう結果はどうでもいいとは思う。
振り返りおさらいなんかして楽しんでいたりする。
ああここはよかったな、あそこはよくできた、なんて振り返る。ともかくやったのだ。
例えば、懸命にやってきたことが無残な結果に終わったとしても、やり遂げたことは糧になる。
無駄ではない、そう思える。
どうせみんな死ぬのだ。
死んだら無駄だったかといえばそうではない。
だから、これでよかったのだ。
やるべき場所にいた、やったことは今後も残り続ける。
のそのそと残務整理を始めている。
手がつけられなかったものにとりかかる。軽いことだがこれまで先送りにされていたものだ。
残ったものも片付ける。やり遂げたことを振り返る。
一部はファイルにし、一部は焼却。
一部はレジュメを作りまとめを作り始めた。
同じようなことに備えて雛形を作っておく。
使った資料は整理する。重複しているものは処分。
そうして後片付けをしながら、これで疲れを抜いてゆけるかなと思った。
それが消耗してしまった後の回復方法かも知れない。
ランニングで、走った後に急に止まってはいけないと教えられた。
息を整えるため、暫くはゆっくり足踏みしていろと教えられた。
それと同じことなのだろうか。
逆のこともある。
年寄りが骨折なんかしてしまうと大変だという。
ヘタをすると寝たきりになってしまうという。
骨折が治癒するまで暫くは動けないものだから、ただでさえ弱った筋肉がすっかり落ちてしまい、骨折が回復しても歩けなくなってしまうという。
だから少しでもどこかを動かしておく必要があるが、それがなかなかできない。
考えて見れば年寄りが松葉杖をついている姿などあまり見ない。
安静にしていればいいと言ってもダメな場合もあるのだ。
慣性の法則というものもある。
重ければ急には止まれない。
落ちる速さは同じでもぶつかった衝撃は異なる。
つれづれに思う。
フラップアップ。
バーンと いこうや
