私は意外と、半額には大真面目なのだ
「宗教」
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その定義は色々とある。
信じること。
信じられると、人から思われていること。
信じられていることのため、人々にまとまりができること。
人が、孤独ではなく社会で人と関わり生きるため、生きるよすがとすること。
人を支えるための想念。
人が誰かと共有しようとする価値感。
自分を縛るための鎖、錨。
自分をつなぎとめておくための大いなる意思。
自分が問いかけられる唯一のもの。
・・・ 挙げれば尽きない。考えれば深すぎて追いつかない。
体と、心が感じることなのかも知れない。
しかし一方、その「教義」ということに限れば、私のそれは既に宗教だ。
戒律であり、信仰である。
半額ということ。
太陽をあがめるように私は半額シールを求める。
「パックに輝くマークは半額♪」
(「胸に着けてるマークは流星」、そういう人もいるww)
アーバンな日常を生きる私は、まるで狩猟民族のようにして半額を狩っている。
私の半額という教義は、すでに自己目的化している。
他人からすれば、半額に何の意味があるかというぐらいだ。
そこに後悔はない。
ほとんどのものが半額でなければ買えないというようなレベルである。
千円が半額で500円、それなら同じ似たようなものが200円でも半額の方を選ぶ。
実際、全く同じものが高い店で半額だったのに買ったが、違うチープな店では処分品でないものが同じ値段で売られていたなんてこともある。
珍しく食べつけないものでも半額ならばと買う。
逆に、つい買ってしまいたくなるものを見つけても、定価ならまだいいと、買わなかったりする。基本は半額なのだ。不要不急と片付ける。
「これはいいかも」「これは美味しそうだ」「これはどっかのブログで見た」
「誰かが美味しそうに作っていた」「たまにはこんなのも良さそうだ」
「お得感がある」「好みかもしれない」「きっと満足する」
言い出せばキリがない。
我々は様々なものを消費して生きている。
そして飽きたりしないように欲しいものを欲し、食べたいものを買って食べる。
だが、それは本当に今、今夜食べたいものか?
その答えが出ないこともある。
私の半額という教義は、いとも簡単にそんな悩みや誘惑をシンプルにさせてくれる。
ここに宗教たる宗教の所以がある。
我が信仰の教義に照らせば迷いはないのだ。
私の歩む足元を半額シールが照らす。
ひとつの基準があれば、他の要素は切り捨てられる。
それはとても快適なことだ。
シンプルで時間を無駄にさせない。
そして料理に工夫をさせてくれる。
美味しく出来上がった嬉しさはひとしおだ。
毎日の食事が美味しく感じられる。毎日に驚く発見がある。
半額というのは、私には不幸な者を救済する意味にも感じる。
それは誰からも見向きもされなくなり、廃棄されそうになった哀れな食材のことだ。私はそれをカゴから救い出す。
半額という結果は、私には物流のアヤ、消費社会のはざまというものを見せつけてもくれる。
半額になる時間帯があり、半額にする係りがいて、店がなぜ売れなかったと戦略を立て直している。パッケージデザインが悪くて売れなかったもの、同種同類のものが溢れて飽きられてしまったもの。私は消費社会の林をかきわけ、すり抜けてゆく。
私には半額シールは権威でもある。
この飽食の時代、食べる意味を与えてくれるヒントでもある。
ただ腹が膨れるだけでない生活のヒントだ。
私はエコでロハスで、優しさである。
消費を慈善と結びつけ、私自身を豊かにしている。
立って繁昌、寝て一畳ww。
私はこのまま、忙しくこの生を駆け抜けてゆこう。
黒電話が死んだという話を聞いた。
だが真偽は不明だ。デマも多い。
