今こそ男たちの出番ではないのか
「おい。パンケーキ作ってくれ」
☆
「え、えーーーーー。ちょ、なんでよぉ」
「ちょっと甘いものも欲しいだろ。砂糖は頭の栄養だ」
「えーーー、なんでよーーーーーー」
「いいから、作れ。ジャムもあるだろ、あと紅茶な」
「わかったわよ」
・・・
「ほら、美味かっただろ(笑)作ってよかっじゃねえか」
「うん。美味しいwwww。」
「コロナ騒ぎで、みんな家で作ってるってよ」
「そうなんだ。またやろうね♪」
虐げられ疎外された男たち。
それは日頃からある男たちへの非情な仕打ちだ。
常に男というのは徒な評価に甘んじているもの。
しかし、それは平時だからのことだ。
それはいつもの取るに足りない日常だったというだけ(笑)。
日頃から、男たちはそれを笑い飛ばしてきたのではなかったか。
男たちの立場など日頃は歯牙にもかけられないものだ。
そんな立場というものが「ある」とか、自分には立場があるなどと言えるようなヤツはどこかおかしい。
男がしくじれば反省が必要であり、常に振り返ることが要求される。
そこに「立場」などない。
しかし今は違う。
今は平時ではない。
緊急時には男の決断力が必要になるものだ。
それは目的のために賭けることのできる度胸であり、リスクテイクができる勇気だ。
どうせ死ねばもろとも。
男なら、みなそれを知っている。
今こそ男たちは、多くの決断をすべきときだ。
家族を守り、地域を守り、国を守るときだ。
今、コロナ自粛で、もし家の中にいるというなら、これまで外に逃げてきた自分を今、そこに帰すべきときなのだ。
なんとかできる。なんとかなる。
その気概だけでもいい。
そして、ともすれば乱れそうになる家を指揮せよ。堕落を戒めよ。
ストレスの溜まってゆく家族を落ち着かせよ。
パートナーを諌めよ。
男がここでイラついてる場合ではないのだ。
普段から虐げられてきた男たちの自尊心は、今こそ働く場所を求めている。
危機にあっては女たち、子供たちを、男こそが導くときなのだ。
ここには、なんとかの腐ったような芸能人やタレントはひとりも入りはしない。
連中がネットにでしゃばってきて煩いが、男たちがそんな態度をしていてはコロナの危機の前に家庭などもたない。夫婦が成り立つわけがない。
顔を売り、名前を売り、自分の立場を売ろうとするだけのタレント。あぶく銭で食ってきただけで、いつまでもテレビに映ろう、世間に露出しようと必死だ。
そんな無様さは人間としては直視できないほどの恥ずかしさだ。
男はそんなことはしないものだからだ。
しかし反面、女どもはそういう目立つものに目を奪われがちだ。
男は恥ずかしくないように生きるものなのだと、背中を見せるときだ。
芸人やタレントの妄言やデマから家族を守るときだ。
今のこの時期、男たちこそ、今やるべきことを考え、舵を取るべきなのだ。
それぞれの家で、それぞれの家庭で、職場で、学校で、言うべきことを言い、話すべきことを話し、指揮を執れ。
ないものねだりや勝手気ままな批判、無責任な注文や文句を言っていよい場合ではない。
自分が指揮を執るのだ。
男が自らのアイデンティティを取り戻すときだ。
例えば、子供が学校に行っている年齢なら学力の低下を心配すべきだ。
授業が遅れれば、時間は待ってくれないとばかり、文科省は全国的に右へ倣えと、カリキュラムが欠落したまま次の学年へと進ませるだろう。
しかし世間は将来、そんな事情を汲んでくれることはない。世間が劣った能力を見逃すことはない。
バブル世代、氷河期世代、ゆとり世代、そしてコロナ世代、どんなにそれぞれの時代の環境が違っていても、その時々の事情を汲んでくれて許してくれることなどない。
言い訳をしてこの社会を生きてゆくことはできない。
どんな事情があっても、決して手加減されることはないのだ。
少しでも努力した者がいつかは評価され処遇を受けることになる。
やるべきことをやれる時にしなかったら、評価すらされない。伸び伸びとさせてもいい、だが子供には学習を怠らせないようすべきだ。
たとえ月に行くほどのカネが出来たとしても、一生人間のクズ扱いでは、魂の行き先などない。それは当事者にしか分からないだろうが。
どうせ短い人生だ。
惨めで孤独で、周囲の連中はそのカネだけでしか見てくれないのでは、死んでいるようなものだ。
それはあまりに絶望的なことなのだ。
・・・
自分のこと家庭のこと、どんなに小さなことでもよいから指揮を執ろう。
他人のせいにするな、他人に関わるな。
人のことはどうでもよい。
自分のこと、自分の家庭のこと、今こそ男たち一人ひとりが、指揮を執るべきときだ。
