電卓の歴史、日本の高度成長を支えたもの
昨日の計算、暗算。
別にそういう話があるというネタで、店員が嫌がるからやめましょうなんて話ではない。それにどれだけの店員がそんなことを考えているかだって確かなことは分からない。
今は半自動レジが便利。ジャラ銭を全部入れるとおりこうなことにちゃんとまとまったカネにして返してくれる。電卓なんか要らない。
振り返れば、大型のACアダプタをわざわざコンセントに刺して使うような電卓があった。
あれは表示も液晶ではなかった。
蛍光管表示とか、数字は発光ダイオードなんかで表示させていた。
あの蛍光管ランプとかダイオードなんてのは、映画の「2001年宇宙の旅」というのが最も印象にある。
赤く不気味に輝くカウンターが動く、狂ったコンピューターとともに印象的な使われ方をしていたのを思い出す。
あれは意外と、今でも使われていて、新しいエレベーターなんかでも使われていたりする。液晶が意外とモチが悪くて劣化するようになったから、きっとあっちの方が耐久性がいいんだろう。
紙ロールのプリンターが電卓についていたものもあった。
あそこまでいくとまるでレシートだった。
あれを印字して、会計にそのまま寄越した店なんかもあったが、いったい税金はどうしてたんだろうか(笑)。
電卓の進化、その歴史は日本の近代産業の勃興の歴史でもある。
真空管に始まって半導体、IC、メモリー、世界を変えることになる半導体産業が育っていった。
・・・
はて、
電卓と言えば、M+とかM-とか、MR、いわゆるメモリーボタンはどのくらい使われているんだろうか。
電卓と言えば、M+とかM-とか、MR、いわゆるメモリーボタンはどのくらい使われているんだろうか。
昔からあのメモリーボタンはあまり活用されなかったと思う。
加減乗除だけ。せいぜいパーセント。
今では電卓をしじゅう使っている人は少ないだろうから、きっとメモリーボタンは「電卓の使わないボタン」なんて扱いになってしまっているだろう。
電卓など使わないと言っても、スマホにだってあるし、使うこともあるんだろうけど。
ちょっと考えてみて欲しい。
5 × 2 + 8 × 2 と、順に電卓に入力しても、正しい計算結果にならない。
掛け算が優先されない。電卓は算数のルールに従ってくれない。
本来なら(5×2) + (8×2) = 26 となるはずだが、
それが、((5×2)+8) ×2)と解釈されて、36になってしまう。
これをたいていの人は暗算で済ませるか、一度紙にメモしたりして計算していたはずだ。
本来なら(5×2) + (8×2) = 26 となるはずだが、
それが、((5×2)+8) ×2)と解釈されて、36になってしまう。
これをたいていの人は暗算で済ませるか、一度紙にメモしたりして計算していたはずだ。
店で「ちょっと電卓貸して、」なんて言って、電卓で計算を始めた人が「あれ?」なんて、計算が合わず、困っているのは最近でもたまに見かけること。
今ではパソコンの表計算が主流となって、算数のルールは当然のようにやってくれる。
普通にセルに = 5 × 2 + 8 × 2 と入力してエンターすると表計算ではちゃんと26になる。
かしこい表計算は算数のルールを理解してくれるのだ。
あるいは、マスを利用してこっちには5×2、隣のマスには8×2とする。
そしてSUM、合計すれば一目瞭然でもある。
なんなら計算式にカッコをつけて = (5×2) + (8×2) という式を打ち込めばもっと間違いがない。
目で見ても、計算の構造が分かる。
昔の電卓でこれをやる場合はどうか、
5×2と入れたらM+にしてメモリーに格納する。
次の入力は新規だからなんでもいい。
そこで8×2とする。
またM+を押してメモリーに追加する。メモリから引きたいなら何か計算をしてやってその結果をM-となる。
イコールは押さない。
メモリにはどんどん計算結果が反映されてゆく。
これなら最後にMRと打てば26と出てくれる。
って、
なんか当たり前のことみたいだけど、、、どうか。 まあ、自分でもおさらい(笑)。
自分でも意識しないとこんがらがる。苦手な方だ。
イコールおしちゃって倍々にしちゃったり。
私も最近は電卓を使わなくなってしまった。
頭の中がすっかり表計算になってしまった(笑)。
思えば、日本は早い時期から、教育として電卓の使い方をちゃんと教えればよかったのではないかと思う。
試験でも、電卓は使用を禁止にしてききたろうが、使わせればもっといいのにと思う。
答えさせたいことは計算のプロセスなのだ。
きっと教育の現場では、電卓がここまで普及することは見えていなかったに違いがない。
世の中の変化に対応すること。
それが教育というものだが、教育は戦後、プロパガンダの場となってしまった。
価値観を共有するための場となってしまった。
そしてその価値観とやらは、一方的で、常に移り変わる。
異論反論もあり、時々それが噴出したりする。
今の時代、一部の連中に都合のいい主張がいつの間にか通ってしまったりするのはそういうプロパガンダが理由だ。
結局はそれは教育の間違いだったと言える。
我が国にとってはとても残念なことだったと思う。
このコロナ騒動で、これまでの価値観は破壊されつくすだろう。
次の変化に対応できるようにしておきたい。
私はそう願ってやまない。
おそまつ
