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昭和の食パン事情

 明日はエイプリールフール。
 世界はコロナを笑い飛ばせるか、それとも無理か。
 よく見ておきたい。
 志村けんはその前に逝った。昭和がまた遠ざかった。


 「パンを8枚切りで買ってこい」

 私は子どもの頃によく、そんなお遣いをさせられた。
 タバコを買ってこいというのもあったが、パンもよく買いに行かせられた。

 別に苦痛ということはなかった。
 外の空気は素晴らしいものに感じたから。


が、そのパン屋、商売の仕組みには不思議なものがあった。


 考えてみれば、当時はあんな風にパンが売られていたのが定番だったように思う。

 今の若い世代からしたらまるで異次元のことだろう。昭和の振り返りのこと。


 「パン屋」、と言っても、自分でオーブンを持ち焼いているような、今のようなパン屋はむしろ珍しくて、「パン屋」ときたら、ヤマザキとかフジパンとかの下にぶら下がったいわば「販売代理店」だった。

 「日立のお店」とか、「ナショナルの店」とか、そんな感じの契約がパン屋にもあったのだと思う。


 そういう、似たようなもので今でも残っている商売があるとしたら、ヤクルトや新聞屋、そしてコンビニなんかがある。そのどれも、あまり本部から丁寧に面倒を見られている気はしない。



 ともかく、パン屋の彼らは、袋入りの菓子パンとかオカズパンを売っていて、スナックとかジュース、ゼリーとか牛乳なんかを売っていた。
 品揃えは洋食ブレックファースト系のものだが、いわゆる駄菓子屋に近い。
 店構えは、駄菓子屋を洋風にして少しきれいにしたような店で、ジュースや洋菓子、菓子パン、スナック、などを陳列するショーケースをきれいに並べたところもどこか新しい感じがした。

 都市近郊で団地なんかが作られ、モダンなニューファミリーともてはやされた頃だった。


 アルミサッシのガラスの引き戸を開けて中に入ると、レースの暖簾を開けて店主が出てくる。さっきまで何かを食っていたのか、口をモグモグとさせてオッサンが出てきて注文を聞いてくる。

 彼らは、長い1メートルはああるようなヤマザキから仕入れてきた「食パンの元」を後ろの棚に何本か並べていて、客の注文に応じて一斤を何枚切りと切ってくれる。
 枚数を指定されると、棚においてある電気仕掛けのスライサーを調節してパンをスライスした。
 スパッスパッと切れるパンは、確かに美味しそうに見え、まるで焼きたてのように見えた。
 ただ目の前で切っているだけだったのだが。


 今の我が家にはホームベーカリーがあって作っているので、「一斤」という大きさは今ならわかるが、当時は一斤というのはどういう単位なのか、実に不思議だったものだ。もちろんその基準など学校では教えてくれない。

 せっかくだからと、今、ぐぐって調べてみたら明治の昔は600グラム、今は食パンに関してだけの規格となっていいて340グラムとの定めがあるそうだ。
 一斤が長さや太さのことではないのは意外だった。
 パンだって重いドイツパンや軽く作るパン、色々とある。

 たぶん金(ゴールド)に関しての扱う単位から始まったのだろう。だから長さや太さはそれほど関係なかったのだ。



 その店には菓子パンも食パンも並んでいたが、みんなその店で作ったものではないことは子供の俺でもわかった。

 だから、他の子供が「将来何になりたいか?」なんて聞かれて、特に女の子たちなんかが「パン屋さん」なんて言うと不思議に感じたものだ。
 彼女たちは俺とは育ちが違って、ちゃんと自分で焼くパン屋のことを想定していたのだろう。


 何も給食で同じパンが配られるのだから、わざわざ食パンを買わなくてもいいと、私は遣いの度に思ったが、そのいそいそと格好をつけて食パンをスライスするあたり、そこが好まれたのかも知れない。
 トーストすることすらあまり想定されていなかったように思う。
 そこは給食がそうだったから、トーストなんかに慣れたら面倒なことになると毒親に思われていたのかも知れない。



 ある朝、早朝に学校へと歩いていたら、パン屋のカゴが店の前に積んであった。
 誰もいない、人通りのない、先日のような、寒くて雪が降ったような朝だった。

 カゴは平たい何段にも積み重なったもので、トラックから降ろされて店の前に無造作に積まれていた。
 俺はトラックが朝に店に横付けし、カゴを積んでいるのを見たことが何度かあった。あの日は、雪が降ったもんだから誰も出てこない時間から、とりわけ早く配達されたのだろう。

 俺はその中に菓子パンがあるのを見つけると、カゴを横にちょっとずらすと、クリームパンとカレーパンをひとつずつ失敬して学校に行った。
 わずかの早業www。
 ひどく嬉しくてそのパンはなかなか食べず、いよいよ腹が泣きそうになってやっと食べた覚えがある。
 俺はそれから暫くそのパン屋を避けた。


 その当時、パンの耳はタダどこもでくれたものだ。
 暫くはその「タダ」という名残りがあって、自前でパンを焼いているベーカリーなんとかなんていう店でもタダでくれた。
 独り身の俺が白々しく、「犬のエサにする」なんて言っても喜んでくれたものだ。

 今はもうパンの耳なんかタダではくれない。
 どこもいい値段をつけている。
 不思議とあの頃でも、トンカツ用のパン粉というのは肉屋で売られていた覚えがある。
 タダのパンの耳を貰って、ジューサーにかけたりして細かくしてはいけなかったんだろうか。確かに少し水分が残ってはいるが。
 揚げ物はしないので分からないが。


 面倒見のよいチェーン本部と加盟店がうまく回って商売が動いた。客も当たり前のようにいつもの店で買ったものだ。
 儲かりまっか?ボチボチでんなぁ。
 豊かさ、いや豊かな気持ちがあるだけで互いを気遣う余裕が生まれ、人々は今とは他の世界で生きていた。

 コロナに閉じ込められた世界で、ひっそりとした当時の昔を思い出す。
 馴れ合った共同体では俺は孤立していたが、今の世界では俺はそれを感じない。

 俺が人を思いやれるのは、人々が苦しんでいる時だからかも知れない。

 悲惨なことは隠されていた。騒ぎ立てるヤツはいなかった。


 昭和の振り返りのことではある。



・・・ そうそう、違うパンヤというのもあった。

「おい!留め公! なんでえ、なんでえ。ったく、みみっちいなあ、このクソ寒いのに火鉢に火も入れんと、安いパンヤの半纏でこごえてらあ(笑)。
 おい! ちょっと景気づけに出かけっから、仕度しな!」


 なーんてのも、あれも「パンヤ」なのでした。

 わっか、るっかなぁぁぁwwww(笑)。


 おそまつ

 
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