その2 日々を闘う人たちへ
生きることは闘うことだ。
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それが今、否定され、無視され、曖昧にされている。闘うことをしない腰抜けたちの言い訳と責任逃れの自己正当化の理屈によって、世の中にはある種の無気力と絶望的愚かさが横溢している。
自ら進んで奴隷の人生を生きようという連中が足をひっぱっている。それは自分の国をどうにもしようとしなかった連中だ。現実逃避だけの人生。逃げることしかしない連中がみせかけの国を捨てて日本にもぐりこんできた。
その不法入国移民の性根、生きる姿勢がウィルスのように日本人の一部の連中に感染している。
安全と生命さえないがしろにし、美辞麗句の自己陶酔、左翼の呪詛によって誤魔化されようとしているだけの限りない現実の肯定。もはや絶望からきた肯定でしかない。「このままでいい」「何も変わらなくいい」「考えたくない」「見たくない」「知りたくない」と、次の世代への責任を考える者など独りもいない。
闘わぬ連中には自由も公正さも、治安も権利も法も理屈も誠意も一切の意味がない。
その哀れさと自滅に、関わりのない大多数の日本人がため息をつくべきではないのだ。
人生は美しく楽しい。(笑)
ある家が日本共産党の集会場所だった。
「とある」としたらいいんだろうが気に食わぬ。なんだってそういうおかしな言い方が流行するようになったんだろう。中二病。
だがしかし(笑)。
そこはそこそこ大きな家だが子供はないようで、老夫婦が住んでいた。ベタベタと日本共産党のポスターを貼り、永世書記長となった独裁君の志井の奇妙なポージングとか、九条やって日本人を滅ぼせみたいなポスターが常に最新でよく目立ったものだ。
何か共産党の活動の拠点になっていたようで、選挙のたびに人が出入りしていたのをみかけた。紙を抱えて入っていったりポスターみたいなのを抱えた連中が出入りしていた。出入りは多くなかったが、みな老人だった。
その家の夫婦は穏やかな感じで、たいした顔見知りではなかったが、会釈ぐらいはした。
元教師だとか聞いた。花の手入れなんかで話したことも一度ぐらいはあったかも知れない。
その夫婦のうち、旦那が死ぬ。
ある時、通りかかったら線香臭いので変だなとちょっと足を止めていたら老婦人がたまたま出てきた。 何かお変わりありましたかとニコやかに話しかけたら、何か変わりがありましたとニコやかに答えた。
軽くお悔やみを言っただけ。そもそもよく知らない家だ。
その後のある日、前を通りかかったらいつもの共産党のポスターが貼られていた場所にどっかの歌舞伎公演のポスターが飾ってあった。前売り券とか書いてあったが、まさかそんな商売を始めたわけではないだろう。
旦那が死んで老婦人はいよいよ自由になったのかなと思った。
すぐにそのポスターは剥がされ見かけなくなった。どうやら共産党の連中が飛んできて止めさせたようだった。有無を言わさぬ圧力はさながら田舎の限界集落のそれなんだろう。
自分の家でどんなポスター貼ろうがいいではないか。それが許されない。まるで中国の公安警察だ。赤紙が来るとか騒ぐヤツラがまるで特高みたいな思想取締りをしているのだった。
今でも老婦人の独り暮らしというのに、共産党関係の爺いどもが通っている。
夕刻日が暮れた頃、玄関先でよく話しているのを見かける。
さすがに老婦人が昔の仲間でも不用意に入れるというのもおかしい。
一人の爺いはまるで色キチガイの学生のような目をしてやってくる。その爺いは共産党の仕事というお題目をタテに未だに老婦人の元へ通ってくるのだろう。そしてエロ爺いのくせに難しい顔をしてみせ、老婦人との会話に酔いしれるのだ。
昔からこうやって若い男女が出逢いを求めて共産党やら学生運動やらをやっていた。
寺山修二も出逢いの道具でしかなく、安保問題もガキどもが出逢うための理屈っぽいだけのきっかけでしかなかった。学生運動はオスとメスが集まるだけのイベントでしかなかった。
それが老人となり、歪んだまま年を取った。
先だってブログで思い出したようなこと。Barで横になった女相手に俺がキモい妄想にひたったように、そういう戯れを連中は四六時中やって、ビラとアジに生涯を無駄に過ごしてきたのだ。そんなことぐらい俺にもあったから分かる。(笑)
そんな歪んだ人間関係と思惑はどこまでもそのままで、はっきりもせず、ご大層なからっぽの「安倍政治を許さない」だの「安全保障反対」だの、意味のないプロパガンダが風に揺れている。インテリ、反権力のご大層な仮面で思惑を隠しながら。
昔から、群れる連中に正義などない。
「だから民主主義というものがあるのだ」と言ったら彼らは理解するだろうか。
孤独も知らず、闘う意味もわからない。正義も真実もすべては洗脳されたストーリーの中の空虚なフレーズでしかない。
歳をとった今ではババア目当ての老人の色キチガイだ。
我々とは世界がまるで違うとしか言えない。
おだいじに
