うどって気品があって美味しい
うどはとても品がある食べ物だと思う。
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また今年も口にする季節になった。
うどは香りも控え目なのがよいし、味も表現のしようがないほどほのかに感じる。
だから懐石などでは何かしらの形で出される。
それも春先、ポカポカといい季節のこんな頃。
おしるしのように控え目に出されると吉兆のように感じる。
菜の花もいい、サワラもいい、筍もみんな春の味わいではある。
でも、うどの味わいというのはまた格別だ。それほど主張がないところが「春の匂い」と言い表すのに相応しいのだ。
いわば高貴なものさえ感じる。
主張がそれほどないから、調理方法も多彩。
白和えでもいいし酢味噌、味噌、焼いてもいいし、少し湯がいてゴマと合えても。
それこそ何でも考えつく。
とても調理のやりがいがある食材なのだ。
・・・
そう考えると「高貴さ」とか「気品」というのはそういうものだ。
「ノーブレスオブリージュ」というのは、ひっそりとはしていても厳しく律せられた彼らの立場と誓いを表す言葉なのだろう。
どんどんわがままを晒し、顔を売るだけの道化になってゆき、醜態を晒している最後を見ると、やはり嫁の育ちが悪かったということを考えてしまう。どんなにメディアを操作して言い訳や飾りごとをしても、やはりその性根は透けて見えてしまう。昔からそういうことをやっていた。国民はこれを平成にわたって無理やり支えていたのだ。姑にイジメられたなどと漏らしたり、隠せない我慢のなさは実は最初からあったのだった。
そしてこの体たらく。
ああなってしまうと、もう扱いは難しい。高貴さの義務をかなぐり捨てて開き直り、自己主張などし始めれば間違えるからだ。「法律を変えてくれ」などあってはならぬ要求だった。勝手な振る舞いは許されない。アイコンが喋り始めれば誰に利用されるかわかったものではないのだ。
だからその昔は島に流した。女はクビをはねた。
しかし今はそういうわけにもゆかない(笑)。
ミジメな平成が終わろうとしている。
嘘をどうしても取り繕えないまま終わったという時代の感がある。その平成が終わる。
これを奇貨、いや「奇禍」として次の代に託すのは良いかも知れない。
国を守る意識があられ、「滅私」というものをご承知の方に代わられるのは結果としては良かったことなのだと思うしかない。
別に卑しい国民風情だから「思うしかない」と言うのではない。主権者である我々が担いでしまったものが間違ってしまうにしてもやはりその責任は主権者にあるからだ。
こうしてギロチン沙汰になることもなく、どうにも不思議とケジメがつけられないままやり過ごすというのも、この国に実によく合っていることなのだろう。
「うど」の味は春の希望を思わせる。
次の方にはそういう微かな香りを感じざるを得ない。
特にどんな主張があるというのでもない、それがそのお立場と言うもの。
それをしかとご存知か。
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