負の連鎖.5
・・・
軟禁のような状態は朝から始まった。
ピーチクとスズメの声で目が覚める。
すぐに朝飯を食って休日練習問題集のノルマが始まるのだった。
昼になれば昼飯を食ってまた取り掛かる。また何もないその部屋に戻るのだった。
妙に薄暗い部屋だった。
窓を開ければ外が見えたのだったがほとんど開けることはしなかった。
その窓から外を見れば外が感じられる。
外にいられる人、歩く人が羨ましいと感じてしまうので、俺は外を見ないようにした。歩いている人など見たくはなかった。
ともかく、ノルマが終われば外へ出られるのだった。
外に午前中から友だちが集まることもあって、彼らは午前中から俺が出てくるのを待っていたこともあった。
俺はせいた。
急いで問題をこなしていった。
早く、はやく、はやく、はやく。
あの問題集の中身は一種の流れ作業的なものでしかなかった。
知能も思考能力も育てず、ただ意味のない、考えることなどない公式の集まっただけのパズルでしかなかった。
機械のように考えもしないでこなすこと、それをひとつひとつの問題をこなしてゆくのを心から馬鹿らしいと感じた。
その馬鹿らしさはノルマを課そうと突然に思いつき、こっちのことも考えずに押し付けてきた親には通じないものだった。
そういう意味がないことをさせられていると突然気付くようにハッとさせられる。
強烈に理不尽さが天井が降りてくるように感じられて、発作のように飛び上がった。
突然に恐ろしく徒労を押し付けられたことを実感してしまい、その度に俺は、その部屋で歯を食いしばってどこにも聞こえないようにしておいてからそっと叫んだ。歯茎から血が出た。リンゴをかじったわけでもないのに(笑)。
その部屋は妙に清潔な感じの和室で、静かな部屋だった。
そんな時、イライラはつのりいっこうに集中できないようになってしまう。手につかなくなる。そんな波がしょっちゅうぶり返すのだった。
その時のイライラの感覚、そのストレスがそれだった。
歳をとって外の子供の歓声を聞いた時に起きる体調の変化、ストレスと全く同じだったことに気付く。
手に取るようにそのこみあげるものは再現することができた。
外で待っている連中がいる。
だから早く済ませよう。
早く、はやく、はやく。
そんな焦りとストレスで、よく途中で吐いたりもした。
こみあげるものが自然に出た。
俺はその部屋で一人でノルマをやらされていた。
吐いたものはそのままにせず、押し入れの来客用布団で拭いて隠した。だが、それが後で問い詰められたという記憶はない。
たいていは遅くとも昼を過ぎると、休日だからと家の外に友だちが遊ぼうと集まってくるのだった。
外でみんなが俺を俺の家を取り囲むように待っていた。
俺の家を囲むようにして待っていてくれた友だちたちは、家の外から「遊ぼうよ」と声をかけてくる。はーい待っててね。親が代わりに答えた。
そのうち返事がないと、まだか、まだかとさえ声をかけてくれたりしてくれた。
外で俺の名前を呼ぶ声が何度もした。俺が家のどのあたりの部屋にいるかはわからなかったのだろう。声は違う向きを向いていた。
それが取り残された感覚を増幅させた。それは孤独感というようなものではなかったけれども。あまりいい気持ちではない。だがどちらかというと、急いで焦っているストレスが厳しく俺を苛んだ。
そういう友だちたちの声が止む。
親によって止めるよう注意されてやむのだった。
俺は向こうでどんなやりとりがあるかがわかった。
そのことを感じると、恥ずかしさに顔が真っ赤になっていた。
俺は顔を赤くしていた。たった一人でいるその部屋で。
自分不在のまま、俺の知らない預かり知らぬところで俺の状況が人に説明されている。
俺には見えないところで俺が丸裸にされ、俺自身の声ではなく、俺以外の人間によって勝手に代わりに誰かに何かを説明し、代弁し、喋っているのだった。それが親であろうと、それは許されざることだったと感じたものだ。
激しい憤怒を感じたものだ。
その時の俺にはその理不尽さがこたえた。
人の代わりに人のフリをして喋る者を俺は今でも許せない。
だから共産党や枝野のような詐欺師政治家どもが、弱者に擦り寄るようなフリをして食いものにしているのが許せない。
弱い者を代弁しようとするあの三文芝居が許せない。
どんな言い訳をしようが、それが政治だと言おうが、許されざる傲慢だと俺には思える。
その弱者とやらにも自ら発言する権利があり、義務だってあるのだと俺は思う。
もしあの時、あの小さな子供が親を殺せていたとしたら、それだけがきっと理由になったことだろう。
その問題集はたくさんのページがあって、俺はそれを解くのにひどく億劫した。
問題はパズルのようなものだし引っ掛け問題もあったから、同じパターンではなかった。
注意力も必要だった。
いちいち読むものだからそれが馬鹿馬鹿しく、引っ掛けの意図がわかるとズル賢い者を背後に見た気がした。すぐにうんざりさせられるのだった。
だいたいが算数だった。
そんなことだから、およそ注意力などというものは育たなかったろう。
俺と言う人間は分裂気味で、情動的な面もある。
今でも説明書やら契約書やら読むのは億劫している。
そうこうしていても時間はどんどん過ぎていった。
外でトグロを巻いて友人たちはそれでも待ってくれていた。
なにやらヒマを潰しているのか、互いに話し笑い合って、楽しそうだった。その場所で俺を待ちながら追いかけっこなんかをしたり遊んでいた。
ハシャいでいる笑い声が聞こえていた。
俺はどんな風に待っていてくれるのか見ないようにしていたが、想像はどうしてもできてしまった。
そんな想像すら頭から追い払う作業すら、急ぐ俺にはイライラの原因になった。
それにしても、いったいなんであの時、あの連中は俺を放っておかず待ってくれたのだろうと思う。
それはどうしてもわからない。
俺はそんなに人気者だったのだろうか。
引っ越してきてから、一緒に遊ぶことはほとんどできずじまいで縁の薄い存在だったと思うからそれはない。
それに意味もなく突然にイジめて泣かした奴の記憶もあるから、よくキレるような嫌な奴でもあったはずだ。
外で俺が家にいるのを知っていてひたすら出てくるのを待っていたあの友だちたちの気持ちは今もって分からないままだ。
今の俺の他人に対する警戒心を考えれば、合点がゆかないぐらいあの時の友人たちは俺を待ってくれていたように思う。
ただ、それをよく噛みしめても慨嘆も何も出ない。感謝の感情も懐かしさも何も湧かない。
その理由がよくわからないから。
今は人との思い出を大事にしたり、他人に心を開くような人間ではないから。
きっと歪んでしまったものは戻らないということなのだろう。
ともかく、彼らは出てこない俺をそのまま置いてきぼりにして、どこかへ消えてしまうということはあまりなかったと記憶している。
外で聞こえる歓声や嬌声、それに対して、俺がどれだけせっぱつまった急いた気分であったか、その時の俺のどこからか降りてきた屈辱感もひっくるめて、俺が早く外へ出たいという気持ちのすべてが、後年になってガキの笑い声を聞くと呼び起こされるトラウマの正体なのだった。
早く、はやく、はやく、自由へ、外へ、そとへ。
俺は急げとだけ思っていた。
しかし過去はとうに昔のことだ。
終わったことだ。
その親も死んだ。
その上、俺はその時期が悪夢だったとは思わないし、否定することもできないと思っている。そのおかげで今の自分がある。
俺はそれをもとにできていることは否定できない。
あの時もし、おいしくなく、少しの工夫も、人への気持ちもない家の食事とかでなかったらどうだったろう。
人に対する心遣いの一切も感じられないくだらない家のメシをもし俺が食わされたりしていなければ、きっと給食がまずいと不平を言うような、他力本願さが備わったのだろうか。平凡なものに極上の喜びを味わえないつまらない人間になったのだろうとわかる。
汁と漬物で一汁一菜でメシを食ってさえ心から美味しいと思える。
そんな気持ちになれたかどうか。
大事な人に美味しいものを食べてもらう喜びを理解できたかどうか。
人の喜ぶ笑顔を嬉しいと思えたかどうか。
過去は終わったことだが、過去を否定することはできない。
俺は済んだことを思い出しただけだ。
それでストレスが呼び起こされることは消えた。
それでトラウマはなくなった。
・・・
