料理から考える発想方法、修正方法
豚汁なんてのは素朴な、名前よりも中身の料理だ。 だから自由に作りたい。
そうやって手近にあるそこらにあるもの選んで投入して作る。
ウチは特にいつも分量とか材料とかを事前に考えるとか、組み立ててから作ることはしない方だ。
場当たり的に楽しんでいる。
あるもので作る。たまたま手にはいったもので作る。
大げさだが対応力や適応力が鍛えられる気がする。
作っている途中で「ああ、これなら前にやったアレだ。美味かったからアレでいこう」などと気が付いて、味付けを以前と同じにすることはある。だけど最初から「これはこんな味にしよう」「定番のあの味にしよう」などとは決めておかない。
どんな味にするかはあまり決めない。
豚汁だったら、味付けは塩でも味噌でもいい。醤油やミリンでも豚汁は自在だ。
ダシがよく出たら塩にしたりする。
もちろん、ポピュラーなのは味噌なんだろうけど。
・・・
そんな作り方をしていると、ちょっと味付けに悩んだりすることもある。
普段、料理を作っていてちょっと味付けに悩むことはあるものだ。
豚汁なんかは特に、具を投入しくと味の方向がわかんなくなることがある。そういう「方向性を見失う」ということはあるものなのだ。
そうしたら「雑煮」を連想するといい。修正が出来る。俺のやり方だ。
例えば豚汁にインゲンを入れたとかベビーコーンを入れてみたとか、そうするとどうもちょっと豚汁らしくない感じになってくる。味は悪くなし方向は豚汁だが、ベビーコーンだと違和感がないか?と。
そんな風に、立ち止まることがある。
はて? って。
だいたい汁ものってのは色々と具を入れて煮て、ダシが出るようにしてから最終的に味付けをするわけで、そんな風に最後の味付けはどうするのか、あれれと、ちょっと立ち止まってしまい足が前に動かないようなときがある。
そんな時、豚汁の場合だと「雑煮」の味を考えてみるのだ。
雑煮の味と言っても日本全国で色んな種類のものがある。塩でも味噌でも、醤油とミリンでも。
こういうのは日本の多彩な文化だ。誰だって見よう見真似で知らない地方の雑煮を作ってみたことはあるだろう。
そうしたらベビーコーンのイメージから北海道の雑煮が想像できる。
それで合う味付けを想像してみて、じゃあってんでメインの具を冷凍しといた鮭にするとか、豆系の白味噌にしようとか、思いついてゆく。
そういうもの、「汎用」というか、「ごく一般的なもの」を当てはめてみると自然に発想ができて修正ができる。
とまってしまっていた足がまた進むようになる感じだ。
そしてピタリと味が決まるのだ。
こういうことは何も料理に限らない。
なにかがズレていって、とうとう思考停止状態になってしまっている。
批判や反省、否定と拒絶でとうとう前に踏み出すことができなくなる。
それでも汁の鍋、現状はどんどん煮立ってゆく。すぐにでも対処を考えないといけない。
そういう「止まってしまったところから」修正しようとする時はどうするか。
種類の多いもの、バリエーションが多彩なもの、つまりごく一般的なものを想像してみる。当てはめて考えてみる。
これがもしもっと身近な他のものだったとしたらどうするか? と。
・・・
これが原発の始末。脱原発を考えるということなんだろう。
原発からの撤退は当然でも、どうするか、思考停止になってしまったままだ。
そうしたら、「原発でなくてこれがトイレならどうするか」と考える。
トイレの設計は基本から間違っていた。この種のトイレはもう使い続けることは出来ない。
しかしこの壊れたトイレを直さず、汚物をこのまま溜めたままにはできない。どんどん汚物は溜まってゆくし用は足さなきゃいけない。
「流す下水のないトイレが原発だ」というが、これまで溜まったその汚物はどうする? いやいや、溜めてきた責任を問うのは当然やれよ。追い込んで官僚・政治家、地震学者、東電幹部ら一族まで追い込んで破滅させるべきだ。
え? やらない?
なんで?www わけがわからない、んだけど・・・(笑)。反対派は誰もやろうとしない。だからこれはいつも政治ごっこ、デモごっこか中韓の工作にしか見えないんだけど・・・。
・・・
まあいい。
とにかく、その汚物をいつまで放置しておくつもりか?
まずはトイレを直すだろう。
いずれ汲みとりに切り替えるにしても、方式を変えて下水になんとかしてつなげられるものにするにしても、まずは流せる状態にしないといけない。
それは気に入らないことだとしても、どうしたって最終処分は避けて通れない。
そうやっておいて、やっとトイレの方式を別なものにするとか、別なトイレと下水処理に移行していくということをやってゆくしかないのだ。
いちいち騒ぐな。
再稼動による危険なんて、これまで稼動してきた歳月の危険からすれば短いとさえ言える。止めていることでどれだけ廃炉が遠くなるのかわからないのか?
そのうち廃炉ではなくなるぞ。
このまま放置して思考停止が続けば「放棄」になってゆく。誰も何もしなくなる。
その時、責任を取れるか?
どうせ誰も責任など取りはしない。安倍氏ねとやって喜んでいるだけのウィグル虐殺を看過する気違いどもの反政府趣味でしかないからだ。 連合?組合? NHKと同じように強制的に組合料を徴収して幹部が贅沢三昧しているのを隠したいだけ。そのためにどれだけ労働者の声を代弁していると偽装した? 自分らの利権のための反対勢力、そのための反自民ってだけだろうに。
トイレは交換しなきゃいけないといいながら、結局は汚物をバケツに汲んでリビングに置くようにしようとしているだけだ。
廃炉を段階的にしてゆくのに再稼動が必要ならやるしかないだろ?
ヒステリーを起こして、ただ悪臭を放つ壊れたトイレを放置し続けても何か責任でも取った気になれたとしても、前に進んだことにはできない。むしろ絶望が増すだけだ。
東電幹部すら追い込もうとせず、ただ騒ぐだけ。 枝野の言った安心安全すら問題にせず、民主党政権がやった言論弾圧「草の根のベクレル検査潰し」、まるで国民は全てを忘れたかのようだ。
どうしようもない。
ごく古い言い方だ。「水と安全はタダではない。」
ひとつの発想方法だ。
修正をどうすべきかのメソッドが足りないのではないか。
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