LGBTでは救えない人々 .1
最近、LBGTって言うでしょ。
☆
L=レタス、B=ベーコン、G=グリュイエールチーズ、T=トマト。
あら?
なにやらちゃんと合うじゃないww。
いかにもおいしそうね。
・・・
そんな冗談はさておき、こういう人々をことごとくグループに分け、群れに振り分けようとすること、これはそれ自体がとても危険なことだと思う。
こういうことは時には必要だとしても、よほど慎重にやらなければならないことだし、それこそ右翼だ左翼だネトウヨだって人の主張を決め付けることよりもっとデリケートなこと。
だってこの本質は、誰も知らないプライベートの「性的」なことなんだから。
それを今のように、まるで何かの「ムーブメント」みたいに軽々しく扱っていることは、とても怖いことだと思う。
それを先導してやっているというのが独裁と虐殺、専制政治大好きの立憲民主や日本共産党だっていうんだからこれは二重に怖いことだと思うのよね。
だったらせいぜい、ハンバーガーの具の話にでもすり替えちゃって、誤魔化しちゃったらいいというのが目下のアタシの持論というわけ。
まあ、最近のこういう政治利用についてはとても怒りを持っていて、もう過去記事で書いたことだから、もしこのLBGTの問題に興味がある人は隣のボタンで検索してみてください。「LBGT」で検索ww。
え? LGBTじゃないか?って、どーでもいいのよそんなこと。
言葉をそうやっていかにも定義すること自体が怪しいのよ。
・・・
で、今日の記事はそんな馬鹿どもを嘲笑する話かというと、残念ながら深刻な話になってしまう。
「LGBTという今の言い方や使い方があんまりよくないとしても、そこには少しは意味があるとしても、実はそれでも救えない人がいる」ってことを書きたいと思うの。
「救う」って言う言葉は「掬う」という言い方をしてもいいぐらい。
「金魚すくい」の「掬い」ね。
だから、「どうしても取りこぼされてしまう人たちがいる」ってニュアンスもある。
その人々っていうのは、「性的な虐待を幼少期に受けて影響されてしまった人たち」のこと。
「性的な趣味嗜好」っていうのは後天的にも振れるもので、幼少期の経験でも動いてしまうものでしょ。
それが子供の頃のイタズラやレイプなどで、大きく影響を受けてしまう。
何かの事件をキッカケにして、本人が自分を見失ってしまうほど趣味嗜好が変わってしまう。そして、後になってこれは自分にとっては自然な欲求ではないのではないか、自分はどこへいったんだろうと深く考え込んでしまう人たちがいるわけ。
レイプやイタズラをされてその犯人は逮捕され、その子の名誉は守られ、犯人処罰によって慰謝されたとしても、どっかしら狂ってしまった歯車を見るように自分に悩んでしまう人がいるということなの。
特に幼少期に被害を受けた人にあるのね。
・・・
単にこれを「性的な虐待の被害者」と言っても、言葉としてはそれほど間違いではないんだけど、実はこれはなかなか深い問題なわけ。
こういう被害に遭ったとして、そのことを慰めたり色んなトラウマから解放してあげることはできるかも知れない。
でも、それでもどっかしら影響を受けてしまった部分というのは必ずあって、それが本人に深刻な影を落とすようになることがある。
なにしろ解放されたり解決しても、その悪夢の「いい部分」や「よかった部分」までは人間は消そうとはしないものだから。
自分の傷が慰謝されたとしても、イタズラされたという記憶、衝撃の一部は残ったまま本人に影響を与え続けるということになるの。
一度ついた傷は完全には消去できないってことになる。
「ストックホルム・シンドローム」の仮説が成立してしまうことになるわけ。
人にとっては悪い記憶というか、「被害」という部分はたいてい消したり否定はできるものなんだけど、それがどんなに悪夢であったとしても、「よい部分」はなかなか消せない。
案外と犯人となごんでいたとか、犯人から乱暴を受けて快感が得られてしまったとか、気持ちよくなってしまったとか、興奮したとか、わくわくしたっていう部分。
その「暗い闇にある拒否できない部分」というのが残ってしまうものなの。
それが時には次の犯罪につながるぐらい深刻な傷だったりする。
子供の頃に暴力を受けていた子がやはり暴力を振るうようにね。
そういう人たちを「性的に少数派である」というくくりで救えるだろうかと思うわけ。
それは疑問よね。
だからLGBTというククリにしても取りこぼしがあるということなの。
彼らは確かに少数派だし社会から孤立しているし、秘められた部分でのことで悩んでいるのだけど、それは幼少期の被害が原因となっているということで少し違う。
もう少し社会には責任があるんじゃないかしら。
でもこれはなかなか難しいことなのよね。
