葬儀のこと
盆である。迎え火と送り火と。
敬う遠い先祖はいる。来年はちゃんとやってみたい。
「葬式は密葬とし、身内だけでひっそりやるべきではないか?
あくどい葬儀屋と生臭坊主を儲けさせるだけではないか?」
最近は明朗会計な葬儀社も多い。
最初から料金プランもはっきりしていて選ぶようになっている。
それこそ祭壇も選び、花も選び。
例えるなら今、メガネ屋でそういう商売をして伸びているところがある。
これまで不透明だった「メガネを作る」という商売を徹底して明朗にしたところがウケているという。
ああいう追加料金を請求しないスタイルというのは今では葬儀社にも広がっている。
キャバクラもそうだ。
で、まあ。
そういう料金体系のことはともかくとして、実は「葬儀」ってのは死者のためのものではない。
死んでしまえば亡くなった人は我々の感謝や哀惜の情など無関係だ。
つまり結論から言えば葬儀は「生き残った人たち」のためなんだということができる。
密葬や葬儀自体をしないというのはその生き残った人たちの都合だ。
葬儀をした方がよい場合もあるし都合の悪い場合もある。
さんざん日本を食い物にしてきた唾棄すべき誰かが(笑)、死んだとして、わざわざ遺族がその子孫でございますと顔を晒すわけもない。
あるいはその子孫もまたつんでもない寄生虫として大いに開き直っていて、「残念です」なんて哀悼の意をしらじらしく葬儀をやり、オノレどもの寄生虫ぶりを周囲に誇示し、存在を見せつけるつうのもあるにはあるだろう。
周囲のゆかりの人々から、なくなった人の縁や色んな思い出を見送りたい、みなが集まって偲びたいという要望があればやることになる場合もあるかもしれない。
遺族がそっとしてくれと思ってもそうはいかないケースだってある。
無碍に葬儀はやらないと突っぱねることもないし、残った遺族がゆかりの存命の人々に不義理をするというのも困ることになる。そんなケースもある。
遺言にしても、財産分与以外は葬儀のやり方なんて故人に言われてもできる場合もあればできない場合もある。まあ、よっぽどの人でなければ遺言状に「葬儀は盛大に、女子高生のバトンパレードをつけて」なんて注文する奴もいないだろう。
そこで周囲の要望に応えて明朗会計な葬儀を選び、カッコだけはつけるというのはありかも知れない。
そういうことが一切無縁な故人だった、もともと人との付き合いを好まなかった人だったというなら、それは残った遺族の考えることだ。
しかしそもそもたいてい葬式は「赤字」は出ないもの。香典もある。だからあまりカネの心配はする必要はあまりないのだ。結婚式みたいなものだ。そりゃあ生臭坊主にくれてやりたくないというのはわかるが、それは別な感情だ。
残った人々にとって都合のよいやり方を選べばいい。
その時が来れば選択することになる。今から決めておく必要もない。
大事なのは死んだ人のためではなく残った人のためにどうするか考えることだ。
・・・
しかしここをちょっと踏み込んで言わせてもらおう。(笑)
だから、生前から「俺が死んだらこうしてくれ」だのはとんでもない図々しい要求だということになる。
甘えた老醜極まれりというお話になる。
そこまで言われれば仕方がない。「死んだ後のことは私らがやることだ、ワガママ放題では希望など聞いてやれんかもしれんよ」ということになる。
日本では故人の霊への畏敬や敬意という精神がある。
歴史を敬い、尊重し、先祖に感謝するという伝統がある。
だから今の老人どものそんな要求はそれを逆手に濫用しているようにも思える。
「海の見えるなんちゃら丘に埋めて木を植えて」とか、果ては「ガンジスに流せ」だの「ハワイで散骨しろ」だの、「名前を刻んでくれ」とか。
ああそうだ、ヒバクシャ登録されとけば死んだらヒロシマの公園のどっか、名前を刻んでくれるんだった。あれも同じようなものだ。気付いてゾッとした。
こんなことを考えたら「葬儀は盛大に、バトンパレードは女子高生がいい」なんて注文の方がかわいく思えてくる。
それなら、「せいぜい生前からよくこの国の未来を考え、自己中心的にならないことだ。恥ずかしくない死を向かえられるようくたばる最後まで努力しろ。」そう言いたいもの。
・・・
何しろ、韓国では人の墓を壊して家の土台にするとか石積みにするとかやっている。略奪とチョロマカシは人の墓にまで及ぶ。日本統治時代の日本人の墓なんだろう。そんな写真はネットに落ちている。
そして死者といえども、気に入らない奴の墓にツバ吐きする風習があるのだあるそうな。
死んであんな扱いを受けるなんてミジメなものだと知るべきだ。
それを開き直って言い張り、「どうせ死んでるんだから平気だ」なんて強がるのに限って、死ぬに死に切れない。たいていは左巻きだろう。
ミジメさを想像するだけで怖くて、恥ずかしさでいっぱいで、そんな恐怖に駆られた老人が遺言状作成に司法書士なんかに駆け込むことになる。
せっかくの盆にあまりいいオチじゃなくなりそうだ。
・・・
犬はヒトの最良のパートナーだという。
「落ちぶれたりはしないよ」って書いた日、Mr. Bojanglesの歌を載せたが、あの歌のように可愛がっていた犬が死ねば二十年経ってもまだ悲しい。
それは普通のことだ。
で、イギリスなんかが特にそうだが、死んだ犬の骨を使ってコーヒーカップを焼くということをやる。
イギリスだからティーカップだ。
その犬の骨を混ぜて焼いたカップは普通よりも鮮やかに真っ白になる。
毎日、犬の思い出と一緒にお茶の時間にする。そこには昔からのパートナードッグがいる。
寂しくはない。
