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本棚は人に見られるために使われる


 自分の記憶の中にあるレコードコレクションはどうにもなりません。
 聴いてしまった曲、つい覚えてしまった歌謡曲、それは記憶の中にあるから仕方がない。
 他人が見ることはありませんが納得できないものは残ります。


 自分のレコードのコレクションも、部屋の本棚のようなものです。

 もし、その本棚に並べられた本がどこかチグハグだとしたらどうか。
 違和感のある変な本が紛れてしまっている。
 どうにかしたい、しかしアタマの中のことですからどうにもなりません。
 そんな感じなのです。




 本棚、書棚というのはハッタリがきくものです。
 それは招き入れた他人にひっそりと送る自己主張でもあります。
 本棚は人に見られるために使われるものです。

 他人がアタシのアタマの中やアタシという人間の片鱗を窺い知ることのできるものでもあります。

 それは自分にとっても同じ。
 自分で読んだものを並べた墓標ともなっています。自分で己の成長をそこに見たりする。

 眺めていると湧き上がる自己満足感。それは少し子供っぽい感情です(笑)。


 だから本棚が整然としてないとどうにも気に食わないものです。
 子供は小さなことにこだわってしまうものです。

 背表紙の高さを揃えたり、ジャンルを合わせたり並べたり。
 そうして自分や他人が「見る」ことを前提として本棚を整理するものです。

 実際のところ、いくら有用で愛用していたとしても「教科書」をいつまでも本棚に残しておく人は少ないでしょう。
 教科書は自分がまだ未熟だった証ですから早々と整理してしまうのです。


 そうして、他ならぬアタシも、狭いアパートの暮らしでさえ本棚を一番に部屋に据えてきたものでした。



 今は若い頃には捨てられなかった本も整理されて本棚は随分と片付いています。

 重くて引越しの時には書籍の扱いに往生したものです。
 引越しをするたびに引越し屋のオッサンから苦言をコボされたことを振り返ります。

 「本ねえ。これが大変なんだ。」と。

 なんでそんなものを後生大事に抱えてるんだ、そんな呆れた風な顔をされたものでした。
 
 ある引越し屋さんなど段ボールに本をいちいち詰めることなどしなくて、本を長く束ねて紐で縛って運んだ。
 その時は怪我をしていて梱包も多少頼んだのでしたが、なんだか蔵書をゴミのように扱われてしまったと感じたものです。


 暮らしに忙しい人からすれば「こんな本の山なんて」、と、そんな風に思われていたのがよく分かった。

 未熟だからそんな読んだ本、読まない本なんかを大事にとっておくんだ、と。
 新聞なんて読めば捨ててしまうではないか、と。

 新聞をスクラップする人というのも、それはまたいるものですが(笑)。




 今は片付き、アタシの本棚からはだいぶ本が少なくなっています。

 それは年齢によるものです。
 大人になったから捨てられるようになった。そんな断捨離もある(笑)。


 いい歳をした教授や偉いセンセイなんかが、後ろの本棚に盛大に本を並べてインタビューに答えていたりしますが、やはりみっともないものですw。

 大学という「象牙の塔」にいて歳の取り方を忘れてしまったのでしょうか、どうにも彼らの子供っぽいところが出ている感じがしてなりません。
 あれは研究者や学者というものの子供っぽさが出てしまっている特徴的な光景と言えます。


 彼らの主張を支援させるかのように後ろにあってさりげなく見せつけるズラリと並んだ背表紙。
 本は彼らの知見と知識をうかがわせるものとして使われています。

 しかし主張などと言ってもその中味が問題のはずなのです。
 そんなものの助太刀が議論に必要だと考えるのは論者としたら実にあさましい話なのですw。




 会社の代替わりなんかがあり、若返りとかでチャラい二世、若い連中が社長に就任して社長室なんてものを新たに持つことがあります。
 どうしたってハタ目からはまだその器ではないように見える。

 しかし彼はCEOとして部屋を持ち、立場の体裁を整えなきゃなりません。
 ナメられないようにしないといけないのです。
 ビジネスマンとしての経験も知識も侮られてはならない。


 そんな時、彼らは古本屋に本を頼みます。頼むのは全集です。
 事情を話せばふたつ返事で引き受けてくれる。そんないわば「古本屋」がある。

 それは普通の古本屋とは違う商売です。
 普通にセコンドハンドで本を転売しリサイクルして売る本屋ではありません。
 どっかから「希書」なんかを見つけて転売するような、まるで「発掘屋」のような本屋とも違います。

 専門に「本棚を埋める」のを商売にしている古本屋さんがいるのです。




 そんな古本屋さんはみかけはショボくれていて、たいていパッとしないものです。
 店舗などたいていてゴミ屋敷のようだったりバンひとつで営業したりしていますが、実は年商は数億をゆうに越えていたりするw。


 彼らは本と本棚を使って個性やキャラクターを彩る、ハッタリのエキスパートです。

 並べるものは松下幸之助翁とか、なんとか経営大全とか。
 ご本人もまるで読んでなんかしやしませんが壁に据えつけられた本棚にそんなものをキレイに並べてご本人の貫禄を出してくれるのです。


 リクエストがあればどんなジャンルでも対応してくれます。
 理系でもいい。文学でもいい。

 ジャーナリズムでもいい。田原某にしたってそういう本棚の使い方をしています。
 まああんなクズでさえ本棚を人に見せるというのはやっていることだ、そういう受け止め方の方が適当なんでしょうが(笑)。

 そんな本棚に飾るために陳列するということをやってくれる商売があります。



 これは実は何も我が国だけの特異な話でもありません。
 例はいくらでもあります。

 チョムスキーなんかもよくそうやって本棚をバックにインタビューに答えています。
 あの人もそんなハッタリのスタイルが好きな人です。
 左翼でありながらウクにはっきりとモノが言えない。紛い物だった人ww。
 ロシアの正義、アメリカ帝国主義の崩壊が言えない腰抜けです。


 こうしたことは今のハリウッドの映画でも見られる演出です。

 ものすごい金持ちが(笑)、ITとかAIとかネットワークとかを利用して、人類を狂わせるような野望を持っているとします。
 彼はまるで神のように人類に影響を与えるプロジェクトを手がけようとしている。
 そう主人公に宣言するわけです。
 ・・・迷走するツイッター、エックス、イーロンマスクはどうなるのか。

 ともかく、その時、そんな人物の度量が演出される、そんなシーンがあります。
 野望を打ち砕こうとする主人公との初顔合わせ、まさしく対決のシーンです。


 彼は大人物なのです。
 人類を奴隷化するようなIT技術、AI技術、言論統制へと食指を伸ばしている(笑)。
 対決するヒーローはその人物の滔々とした演説を聞いています。

 すると彼の指一本で壁一面の巨大なスクリーンに地球や人類の問題映像が高速で映し出される。
 彼のプレゼンテーションが始まるというわけです。

 彼は巨大なLCDスクリーンをバックに自身の野望と未来への見通しを切々と語る。
 愚かな人類になり代わって私が正しい道へと自分が導くのだ、と。




 なーんて、そんな演出がよくあります。

 これは古本屋の演出、本棚の全集の飾りが源流となっているものです。
 結局はあれと同じ連想に過ぎません。

 全集の本がLCDの巨大なスクリーンになったというだけのことです。要はハッタリということなのです。

 まあ今ではLCDパネルも安くなってしまいましたから、今はまた別な演出が必要でしょうが(笑)。


 今のWEFなんかのいわゆるグローバリストたちというのはそういうハッタリの勘違い、自己脚色に染まってしまって戻れなくなった狂人たちなのでしょうwww(笑)。

 後ろに飾った本の背表紙に振り回されている。

 彼らは自分たちが正しく、自分たちに人々が従うべきだと考えている。
 彼らは誰がどうというのではありません。

 彼らはガン細胞のように独立して世界のあちこちに転移したのです。
 法や既成の考え方では制御不能であることをもって彼らの存在意義としています。

 法も自由も、民主主義も人権もありません。このままでは世界が崩壊しかねない。




 「全集」のポイントは本が揃って並べられていることです。
 本の高さの違いは許されないものです。
 キレイに揃っていることが統一感という迫力を持たせます。それはまるでファシズムのセレモニーのようなものを暗示させます。

 だから、本だったら必ず全集みたいなものでないといけないのです。


 彼らそんな古本屋の仕入れ先は本屋仲間内のセリが中心です。
 だが全巻揃いというのが条件。ひとつ欠落していても話になりません。

 だから注文に合う品を探して全集があるというのであればどこへでも出かけてゆきます。
 古い亡くなった政治家なんかの書斎なんかも彼らの得意の仕入先。政治家もハッタリ商売です。

 彼らは全集を探す。中味の価値を斟酌することは決してありません。


 それならハリボテでもいいだろうと誰もが考えるものです。はい。その通りw。
 家具屋ならそんなことをします。
 絵に描いたような書籍をベッドサイドに紙のまま置いて、暮らしの提案なんてことをしたりしています。

 しかし実際に社長室でやってもしハリボテとバレたら、いったいどうなるでしょうwww(笑)。
 だからこれは必要な商売なのですw。


 初対面の人間や取引先にアピールする書籍の全集ということです。
 その全集を持っているということはそこに一定の安心感を感じさせます。ご本人の統一していて揺るぎない意思というものが表現されているのです。
 何らかの知見があるという、いわばメッセージになっているのです。

 ナメるな、俺はひとかどの人間なのだ、と。
 そんな風に本棚が使われることがあるものなのです。




 しかし、個人だと少し違います。
 若ければ全集ではハッタリになりません。どっかから百科事典を売りつけられたのか、マルチ商法に騙されたのか、そんなことにもなりかねないww。
 だから普通は読んできた本、あるいは集めた本を並べてゆく。

 しかしそこに困ることがあります。
 並び、高さの統一。そして特にジャンル。

 それに本棚を全体として格調高くしておきたいのに、ついくだらない本が混じっていたりすることがあるのです。
 捨てられない本には違いないのですが中味は他人からすればおよそ違和感のあるものです。
 でも個人的な愛着ゆえにどうしても捨てられない。


 そうするとカッコをつけて本棚を飾り人を呼びたいのですががなかなかそうはゆきません。
 しかも決まってそんな本に限って見咎められてしまうものですw(泣)。


 「あっ、センパイ、意外だナぁ。こんなのも読まれるんですね。」

 こんなことを言われたら頭から火を噴きそうになる。



 だから個人の本棚というものにはたいてい隠された部分があったりするものです。
 秘密の空間があるものです。
 それがヘソクリや秘蔵品なんかの収納場所にやがて発展してゆきますw。


 本のカバーを変えたり、ブ厚いハードカバーのケースの中味を抜いてひっそりと一貫性のない本を隠したりする。
 「英語の赤本」や「公式集」なんかを隠していたりします。教科書を捨てられないのは恥ずいw。

 そうしていわば本当の自分のコレクションというのと、見かけ上の本棚とを分けるのです。
 そこは秘密のスペースです。


 いや、それはエロ本ということではありません。エロ本の置き場所は別です。
 エロ本はたいていベッドの下です。使うのに便利だからです(笑)。

 エロ本があまり本棚と関わることはないものです。

 本棚、それは自分にとってはコレクションであり墓標なのですから。


 まあ、「プチエンジェル」とか「プチトマト」とか、「ミルキーピーチ」とか、そんなロリ系のものだったらきっとキッチリ隠さないとダメなんでしょうけれども(笑)。
 今は持っているだけで検挙される可能性がありますw。


 こういうものの隠し方というのは色々と苦労するものです。
 二重カバーとか二重扉とか多くの工夫があったりします。

 そういう人々のやっていることからの着想もあるのでしょう、金持ちの本棚に仕掛けがしてあって金庫が出てくるとか、そんなのはドラマの演出でもあるし実際におやりになっている人たちもいるものなのです。




 一方、自分は読書家である、そんなアピールをしたい人々がいます。
 本棚の見られるために使われるというわざとらしさを嫌い、本を平積みにしておくのです。

 室内に乱雑に室内に本を積み上げたままにしておく。
 それこそプッシャーゲームのメダルタワーです(笑)。

 よくよく見ればそれらのジャンルは散漫です。まるで古本屋の閉店セールのようになっています。
 別に何かを追求したり没頭している痕跡にも思えません。

 そんな砂の山の中に砂粒を隠すようにして本を積み上げる人たちもいます。

 「乱読」という言葉があります。
 まあ活版印刷が珍しかった時代の名残りなのかも知れません(笑)。
 かつては「活字中毒」なんて言われました。
 今はネットの時代です。「フォント中毒」なんて言葉はありませんw。


 作家にもそういう人がいます。
 しかし人間は暮らしに忙しい。そんなに本ばかり読んでもいられないわけです。
 やはりそこには多少の演出が含まれているのです。



 立ち戻ってみれば音楽にしても同じ。

 レコードのコレクション、それをこれ見よがしに並べた飾りのようなジャケット。
 彼らの音楽センスをアピールするものです。

 しかし、アタシたちの記憶の中にある本棚やレコードのコレクションはどうなのでしょうか。
 別に人に見られるわけでもありません。
 ピンクレディが混じっていてもいいではないかw。


 ところがどうにもそれが恥ずかしくなる。
 自分という第三者が見ているのです。

 刷り込まれたこと、耳に残ってしまったことがどうにも嫌になる。
 アタシたちの頭のレコードコレクションもきちっとしていてほしい、そんな風に思うものです。

 アタマの中も自分の一貫した趣味で統一させたい、それが叶わぬ願いなのです。
 誰も開けて見ることはないのにw。




 しかし記憶や感情というのはそうは自由にはならないものです。

 だから突然に頭に浮かんだフレーズやサビに我ながら赤面してしまう。
 くだらない歌謡曲のジャケットに自分で驚いてしまう(笑)。
 書棚にふいにおいてある場違いなジャンルの本と同じです。


 ああ、俺はもっと人生を清廉に生きておればこんな後悔もなかったのに、そんな風にも思うものです。


 しかし、そんな純粋な完成を今更ながらに自分の記憶にまで求めるというのはどうか。

 分からないでもありません。
 それは我々が当事者でなくなったからなのです。
 もはや青春の当事者ではないからなのです。


 私たちはすっかり歳をとった。
 だから改めてアタマの中の本棚がカッコいいのか、どうにも気になってしまうのです。

 アタマの中の本棚やレコードコレクションでさえも実は他人に見られている、そう思えるからです。
 歳を取ればその人物というのは分かってしまうものです。

 純粋理性批判。


おそまつ



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