釣りはフナに始まりフナに終わる
釣りはフナに始まりフナに終わる
そんなよく聞く言葉があります。
しかし「始まって終わる」とは、いったいどういう意味なのか。
「元の木阿弥」という意味じゃありませんw。
還ってゆく、回帰するということです。これは哲理です。
ニーチェの「永劫回帰」みたいなものと言っていいかも知れませんw。
たいてい、釣りとのその出逢いの最初はきっと子供の頃だったことでしょう。
まあ、「ネットで知った。」と言う人もいるかも知れませんがそれはまた別の話www(笑)。
ネットでは思ってもいない馬鹿な主張を人に振って、ムキになった反論を引き出すしてからかうのを「釣り」なんて言ったりするわけですがw。
子供の頃、竹の細枝、笹を落とした粗末な棒を釣り竿にして、その先に糸をつけ、きっと池なんかに垂れてみたに違いありません。
駄菓子屋なんかでは当たり前のように針と糸とウキの「釣りセット」が売られていました。
後はエサだけです。
うどん粉を水でねってエサにしたものです。
用水路でコゲラやヤゴなんかを取って生エサにすることもありました。
それは生きるものと殺されるものという掟を学んだ最初でした。弱い者はやられてしまう。
最初は、近所の溜め池なんかに行ってクチボソやタナゴなんかを釣ってみます。そしてフナ。
魚が突いてくるウキの動きが面白い。手に取るように水中の魚の動きが分かる感じがしてくる。
エサを取られると悔しい。
釣れれば楽しい。
釣れれば「してやったり」なんて思ったものです。
子供心に小さな達成感をくすぐったものでした。
そうして少年はだんだんと釣りにハマってゆきます。
大きくなれば大掛かりなものになってゆく。
海釣り、乗り合いの船釣り、ボートを借りての釣り。
果てはハワイやキーウェストなんかに出かけていって大きなボートでのカジキマグロ釣り。
巨大な魚と熱戦、大格闘をする。
まさに「老人と海」の真髄を味わう。
海外にまで出かけたりします。
砂浜での遠投、岸壁の岩場での釣り、堤防。
近くに海がなければクルマで出かけてゆく。
それだってたいした距離でもありません。日本は海洋国家です。
あるいは湖なんかでゲームフィッシング、ブラックバスなんかを狙う。擬似エサを使って魚に挑戦したりするようなことをやってみる。
あるいは池で鯉。
いい場所ならよくすれば食えたりもする。鯉の洗い、鯉コク。
川釣り、渓流釣り、河口付近でも。
真冬の湖で氷に穴を開けてのワカサギ釣りなんてのもあります。
そうやって少年は釣りキチ、「釣りキチガイ」になって釣りに没頭する。あちこちに出かけるようになったりします。
色んな魚との攻防が楽しくてしょうがない。
狙った魚を釣り上げる。
もしそれが想定外の魚だったら釣った魚は「外道」と言われます。
釣りには目標が必要です。
闇雲に釣って食おうというなら投網でも投げたほうがずっと効率がいい。わざわざ釣りをする意味などない。
そうしてだんだんと釣りが分かってくる。
節度がつきものなことが分かってくる。
釣りをする時間が自分のものになり、自分のスタイルを決めるようになる。
自分を律するようになってゆきます。
でなきゃ面白くありません。
子供みたいに釣れることだけ喜ぶなんてことはできなくなる。
わざわざ道具にカネをかけて出掛けたりもするのです、別に魚が食いたいわけじゃない。
大漁だったりもしますが釣れないこともあります。
まるで釣れなきゃ「坊主」と言う。釣果も毎回さまざまです。
そんな時は明日は明日の風が吹くさと、そんなことを思える自分が愉快でたまらない。
自然を相手にしているのです。わだかまりというのがありません。
気が付くと、俺はこんな人間なのかと自問している。
そんな思索が誰にでもできる。
釣りをしているとそんな瞬間が必ずあるものです。
また色んなことがつきまといます。天候だって変化する。
満潮になって岩場に取り残されそうになったり、渓谷で帰り道を見失ったり(笑)。
色んなことが起きます。
そうして、まるで釣りをしている体験は人生そのもののような気さえしてくるのです。
釣りの成果、釣果は仕事の結果でもあり恋愛の駆け引きの結果のようでもあります。
子供なら結婚の成果、鯉のぼり、よい子が生まれた成果ということになる。
友人、親兄弟、仕事。
みんなどこか釣りに共通しているところががあると思えてくる。
そうして歳を取ってみればやっぱりフナ釣りに還るのです。
隠居、引退、年金暮らし、人生落ち着いてみれば結局はフナ釣りに還ってゆく。
その落ち着いて釣竿を垂れられるその時間がいとおしい。静かな水面に憩うのです。
釣り師はそうしていつかヘラブナ釣りに還るのです。
そーゆーことw。
ヘラブナ釣りというのは釣りのエッセンスを凝縮しています。
ヘラ釣りはただ面白いだけじゃありません。
そこには自分を見つめる穏やかな時間がある。ゆったりと人生が過ぎてきたことを思うのです。
だから「釣りはフナ釣りに始まってフナ(ヘラブナ)釣りに終わる」と言う。
近衛十四郎なんて人もそんな人生でした。
釣り師の人生を地でやったw。
なにしろ自分の作った釣堀で釣りの最中に死んでしまったようなものなんだから。
このヘラブナ釣りというもの、しかしただフナを釣り上げるということではないのです。
ただエサで釣り上げるというものでもありません。
それはやはり「釣堀」での釣りということになります。
釣堀と言ってもただ魚を放している、そんな趣旨の場所ではありません。
そんな奥多摩なんかの「鱒釣りセンター」なんかとは違うのです(笑)。
そこはヘラブナ釣りのお膳立てが整っているところです。
例えて言えばボウリング場とか、どうかw。
ボールを転がして目標のものを倒す、そんなことはやろうと思えばどこでもできるものです。そこらの公園で真似事だってできる。
しかしよく磨かれてワックスのかかったレーンで専用の靴で足を滑らせボウルを投げること、自分のフォームを感じること、そしてボウルを微妙に曲げてみせること。
きちんと毎回同じように並べられるピンのこと、などなど、そういうものがあって初めて「ボウリング」ということになる。
ボウリング場でなければそんなには面白くありません。
そうでないとボーリング(boring)、きっと「退屈」してしまうでしょうww(笑)。
ただ向こうに並んでるピンを倒すってなら、自分で走っていって飛び込んだり足払いでもすりゃいいw(笑)。
「ヘラブナ」という魚は水温や体調によって水中の一定の場所、ある水深で静かにしている性質があります。
釣堀の魚は水底を突ついたりエサを漁ったり忙しく動き回ったりはしません。
釣堀がそんなコンディションを作ってあげています。
そんな彼らはたっぷり栄養を取ってお腹はいっぱい。
彼らは別に飢えてはいない。エサなんて見向きもしない。
そこに客はエサのついた針を投げ入れ、興味本位でエサに食いついてくれるのをじっと待ち、魚を釣り上げるというのがヘラ釣りの趣旨、醍醐味です。
こういう、ヘラがちゃんと釣り師の相手になるよう、まさにヘラブナらしくいてくれるようにするのが釣堀というものなのです。
朝、たっぷりとエサを撒いて魚たちのお腹を膨らませておいてやり、店主はヘラを落ち着いた状態にしてくれます。水温やペーハーなんかにも気を配る。
そこに客がやってきていざ勝負(笑)となる。
穏やかに釣り客と魚との駆け引きが始まるというわけです。
だから、ただエサをつけて針を投げ入れ、水底に魚を集めてヘラを釣り上げるなんてことはしません。
そんなことをやってたら他の客に馬鹿にされてしまいますw。
そんな風に釣り上げたって、ヘラブナを食うわけじゃありません。がっつくことはないのです(笑)。
水の底にいるようなヘラを釣り上げてみたり、ヘラのウロコに針をひっかけるようにして釣り上げたりなんてことはしない。そういうことは邪道、みんなが忌み嫌う。
食べるわけではありませんから、ちゃんと釣り師らしく、美しくカッコよく絶好のカタチでヘラブナを釣り上げたいというわけです。
客はタナと言って水深を取り、ヘラのいる水深にエサをぶらりと垂らします。
ヘラはヘラの方で腹はいっぱいですからちょっとした遊び心しかありません。
それを誘う。
魚の方は釣り客が自分を釣ろうとしてるのがちゃんと分かっている。
これはゲームフィッシングの一種ではありますが、もっと奥深く趣がある話です。
ヘラブナは客を小バカにしてツンツンとエサをつついてみたりします。ウキがピクピクと動く。
竿をそこで立てたって釣れやしません。
魚にからかわれているというだけですw。
だからじっと待ってこちらは動かない。ただ水中のヘラの目の前にエサが浮かんでいます。
ヘラにエサを突つかれて、ウキがピクピクしても釣り人はじっと待つ。
そのうち魚はジレてくる。
こちらが針をいっこうに引き上げないのでなんだか魚の方がモヤモヤしてくるw。
そうして、ついには針の先のエサを食ってみたいという誘惑に駆られてしまう。
するとヘラはふいっとエサを吸い込みます。
魚は最初から吸い込んだらエサだけとってサッと針だけ吐き出すつもりでいる。
彼らは針にエサがついているのはちゃんと分かっている。
こっちの釣り客はそれを読む。
吸い込んだタイミングをはかってまるで居合い抜きのようにして竿を立て針をヘラの口に食い込ませ釣り上げられれば、釣りは大成功。
ヘラが引っかかったら静かに水面に顔を出させて観念させてやる。
静かにゆっくり岸にたぐり寄せてタモアミですくい取ります。
釣ったヘラは網カゴに入れてそのまま釣堀の水の中に入れておきます。
だからって別にそのヘラブナを持ち帰るからそこに確保しているわけではありません。
食うわけではない。
そうしておけば釣堀に放して、また同じヘラを引っ掛けてしまうということがないからです。
打ち負かした相手はそのまま帰るまで捕らえておく。
何度も打ち負かしたりはしないものです。
そうやって釣堀の魚が痛まないように気を遣うのです。
だいたい、釣堀の亭主からしたら客をヘラで遊ばせているわけです。
魚に滅多な扱いをされては困ります。
乱暴に竿を立てたり牛蒡抜きのようにして魚を釣り上げたりなんかしてたら主人がスッ飛んでくるw。
「魚が傷むではないですか、乱暴はやめてくれ」というわけです。
みんながそうして釣りを楽しむ。その呼吸が分かっている。
魚に遊んでもらうのです。
そうしている間、釣り客は色んなことを考えます。
あるいは無念無想の状態になることもできる。
仕事のこと家庭のこと、どこかに残した忘れ形見のこともあるでしょうw(泣)。
過ごしてきた人生のことを思うというわけです。
そんな深みのある楽しみ方ですから、趣味は悠々としたものです。
そのうち釣り上げた時の感触を味わいたいと竿にカネをかけ凝るようになります。
魚の反応を知るためのウキも敏感なものを求める。
漆塗りで精巧に仕立てたウキなんかを手に入れてみる。
この竿は先調子、胴調子、竿は先がたわむものと竿の真ん中がたわむものがある、それぞれの癖があります。
自分の性格、合わせる間合いに応じて、あるいは気分に合わせて調子を使い分ける。
それこそ一揃いで数十万、百万以上してしまったりします。
食えないものを釣るのに、食うわけでもないのにそういうことをする。
道具ひとつにも愛着が出てくるのです。
小遣いが稼げるわけでもありません。
海釣りなら大漁なんてよくあること。
クーラーボックス一杯に釣れれば帰り道、スーパーや魚屋に引き取ってもらって銭を稼ぐこともできます。これでガソリン代にはなる、なんて言う。
残りは持ち帰って家人に料理させる。
ヘラにはそんな余禄はありません。 なーんにもない。全くない(笑)。
それだけ純粋な釣りだからこそ道具にカネをかけたくなる。
「これだ」という釣り上げるその一瞬が欲しいと、まるで求道者のようになってゆく。
そうして気が付いたら冥土から「お迎え」が来ているのです。
明日はどんな風に竿を垂れてやろうか、そんなことを考えて寝付く。
そのまま朝、往生している。こんな幸福なことはない。
この世に生を受け、ヘラから覚えて釣りに入り込み、経験を重ね修練に励んできた。
考えに考え抜いて、そうして最後には釣りの真髄、本懐へとまた還ってゆく。
人もまたそうして元に還る。土に還るのです。
「稽古とは、一より始め十を知り、再び戻るもとのその一。」
あなたの心には何が残りましたか?w
おそまつ
※ なんだか湿っぽい話になっちゃった。
近衛十四郎の最後が引っかかっているかも知れません。
釣り人生。感慨深いものがあります。
ヘラ釣りは殺生を伴わない釣りです。
殺生や攻防、争いごと、戦いに暮れてきた釣りだったものが今度は何もないところへと回帰する。
同じように私たちは死んでいくのです。
もうすぐ大相撲。
北の富士はまだ健在のようです。
色んな思い出を彼はアタシたちに継いでゆこうとしてるはず。
ハッケヨイの掛け声はまだか(笑)。
