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何が食べたいのか言えない理屈っぽさを自問するw


 お気持ちのこもった拍手コメントをいただき、ありがとうございます!

 色々と共感できるコメントをいただき感服至極であります。


 何を食べたいかという問いになかなか答えが出ない、やはり同じような方もいらっしゃるのだと納得した次第ww(笑)。


 あ、でも、だからって「美味しい」というのを感じないわけではないのです。
 「美味しい」という感覚はあります。分かる。

 いつもいただいたものは美味しくいただいている。もちろん、その「程度」も分かります。
 自分が自分に作っても美味しくいただけています。

 ただ、「何が食べたいか。」それが出てこないというだけです。


 要はアタシは「食というものをまだ分かってない。」のかも知れません。
 あるいは「美味しいから食べたい。」という言い方に気が引けてしまうタイプなのか、そうなのかも知れませんw。



 それこそ、前者でしたらアタシはそこなんでしょうか。
 アタシは早くから食を分かった気になってしまっていました。
 それは生きるための食でした。
 外食と給食で育ったようなものでしたから、色々と分かった気になってしまったような半可通だったかも知れません。


 食わねば死ぬと思っていましたし、それこそドロ水でも飲めるような育ち方でしたw。
 だから「食の成長」というのはあまりなかったw。
 食を追及するというのがそのまま止まってしまい、食は生きるためのものになった。
 未熟なまま成長してしまったタイプというのがアタシです。


 対して後者のタイプの人もいるでしょう。
 アタシには多少そういう部分もありますから分からないでもないw。

 「俺は何が食いたいんだ。」そこに何か傲慢さを感じないわけではありません。
 食べたいものを食べたいと臆面もなく言える、そういう図々しさに自分でなにか引け目がありますw。


 何だって美味しいじゃないか、何をそこで希望を言う必要があるのか、と。
 植物にしても生き物にしてもその命を削って我々は生きながらえているのじゃないか、そういう「殺生」に対する気後れもある。

 だからあまり堂々とは言えないのです。
 そうすると分からなくなってくる。

 アタシは今、何が食べたいのか、と。
 

 どちらにしても、結局、だから理屈や論理が入ってくるわけです。「こないだ食べたばかりだから今日はよしとこう。」なーんてローテーションを考えてしまうのですw。




 こういうのはある意味では「ワガママではない」ということです。ワガママにはなりたくない。
 だからきっとこういう、「何が食べたいかあまり言えない人」には人当たりのいい人が多いとアタシは思う。
 人を不快にさせないタイプの人が多いのではないかとアタシは思うのです。

 
 ・・・まあ、アタシがそうかは別としてなんですがwww(笑)。


 悪い面ばかりでもありゃしません。
 常に美味しく食べられるということ。食から健康面でのケアができる感覚があるということになります。なにしろ理屈がある人なんだからw。


 その利点を考えれば一番は、なにより「不味いものが言える」ということでしょうかwww(笑)。
 いや、人に遠慮なしに言えるかではなくてw、不味いものは不味いと思えるというところ。

 「嫌なものは嫌だと遠慮なしに言えるということ」、でしょうか、どうか。


 だからアタシはコオロギなんて嫌だと言う!www 
 アミノ酸とか言って勝手に混入させないでくれ!





 「理屈っぽいヒト」なんてのはたいてい嫌われるものですが、しかしアタシはそれもひとつのアイデンティティだと思っています。
 
 そして反対に「まず何が食べたい。」「最後には何が食べたい。」、これが自然に言えるというのもひとつのアイデンティティではあります。
 そこにはその人が生きてきた証があるわけです。何を食って育ってきた、あの思い出のひと椀は忘れられない、まさに生きてきた証であります。


 でも「理屈」ってのもアタシが生きてきた証ではないのか、アタシはそう思う。
 アタシは自分を卑下するつもりはありません。
 

 まあ、パンティに惹かれてしまうのか、その中身がどうしても気になってしまうのか、そんな・・・(略)www。


 歳をとってみて、今更ながらですがアタシはそんな自分の理屈で死んでゆくのだろうなぁ、なんて思っているこの頃w。
 きっと江戸の世なら腹を切ったタイプなんでしょう、そう思う。




 今、アタシは家内が留守なので独りメシをいただいています。

 献立を決め、調理して自分だけで食事をいただいています。
 その献立はアタシ的な理屈から出たモノであります。

 そうすると、出されたアタシは、「ああ、こう来るか、今日の理屈ではこうするんだナ。」なーんて自分と対話するわけです。
 それは楽しいものですw。

 自分で料理するのは手前点前のようなもの、自分との対話になります。


 いや、堅苦しくなく言えば、それは「自分で作ったものをどう味わっているのか。」そういう自問自答、自分との対話になるわけです。


 これはベスターマーションとは違うものですw。
 自己満足ではありません。

 別にお仲間とか、家内がいないもんだから独りぼっちでやってるなんてことではない(笑)。

 何も料理の仕上がりの自己満足や手前の段取りの自己満足というものではない。



 食事というのはベスターマーションとは違うものであるべきだとアタシは思うのです。


 そりゃあベスターマーションはいいものですw。
 相手も必要ない、相手がそこにいないから妄想もできる、理想のタイプやいいと思う相手を妄想するわけです。
 果てはAVを見て感情移入しようとしたりするわけです。
 自分がこの中にいたら、なんて考えるw。
 それがベスターマーションw。まさしく自己快楽の追求に他なりませんw。


 つまりそれは、あくまで「当事者」ということになりましょう。
 快楽を得るのはあくまで自分ということです。

 何も代理出産のようなものではありません。そこは自分としてエクスタシーをむさぼろうとするわけです(笑)。
 アタシは生き物としてこれは否定しない。


 ただ、人間として「食事」ってのはちょっと違うと思うのです。

 だから「食文化」というものが深まり、歴史をつむいできたのではなかったのか。





 独りメシとか自分で料理を作るというのはまた別なものがあるのではないかとアタシは思う。

 料理はベスターマーションではよろしくない。
 食べることの主体、当事者意識だけではよろしくない、とアタシは思うのです。「人のため、自分のために作ってあげる」という視点が必要なのではないか、と。
 もちろん、何も自分では作らなくてもいいのです。「作った人のことを考える」そんなことがあればいい。

 料理人のことを考え、作ってくれた奥方のことを考え、その調理したココロを考えるということです。


 そうでないと食の追及ができないのです。
 自分の舌ばかり、ただ旨いと味わうばかりではやがて添加物、人工甘味料に騙されてしまうようになるからです。


 手間をかけて工夫をし美味しそうな盛り付けをしてインスタにアップして自己肯定を求める、そういうのはあまりよろしくない。
 そうした自己満足には成長がないような気がします。
 料理には作る人と食べる人がいるわけです。

 ・・・まあインスタにアップするのは別な理由もあるでしょうけれどもw。





 アタシ一人に二つの役割と立場があります。作り手と食べ手という二つの役割です。
 それでアタシは自分を感じたり傍観したりする。


 「ああ、やっぱりこれは美味しいモノなんだ。」なんて感じる人がいる。
 アタシのように「ふうん、こうきたか、なるほど道理だ。」なんて考えるタイプもいる。


 考えてみれば、そのあたりの繊細さはゲイ特有のものがあると思うのですw。
 自分と自分を見つめる他者、他人が見つめる自分。
 アタシはそんなのがよく分かりますwww。

 ゲイってあまりベスターマーションしないw。

 「自分」には違いないんですけど、本能以上のものがあるw。




 振り返れば独り寝をしていて、いい夢がみたいなあなんて思うことがあります。
 そうして家内やイイのをどうにか思い浮かべようと努力するわけですw。
 そんな風に眠りに落ちればきっとエロい、いい夢を見られるだろうなんて期待しているもんだからw。

 まあたいていそんな期待は裏切られるんですけどw。


 でも、出てこないのw。
 エロエロと色んなものは見ているはずなのにこれだというのが出てこない。目に浮かばないのです。


 せいぜい家内ぐらいだったりする・・・(笑)。まあ家内とは長いですからw。

 出された料理を味わっているようなもの、それが「家内」というものなのか、どうか(笑)。


 せっかくの夢です、あるいは冥土に行ったとしてもきっと自由なのです。
 いくらでも酒池肉林、やったらいいのではないか、天国を味わったらいい、なのにそれが出てこない、そんな自分をふがいなくも思ったりする。

 アタシの自由には自分の縛りがあるのか、とw。
 

 食というのはこういうことを色々と考えさせてくれます。
 「食事をありがたくいただく」というのにはそんな気持ちがある。



 最近、「転生」とかそんな設定が巷では流行りのようですが、アタシはペットと虹の橋のたもとで再開するぐらいしか思い浮かびません(笑)。

 どんな理想郷やハーレム、桃源郷だったらいいのか、考えても考えても出てこないのです。
 それは「食べたいものは何か」というのと同じ気がする。


 「生まれ変わったら猫になりたい」なんて子供の頃に言ってた子がいましたが、アタシはまるでわからなかった。
 その同級生によれば「いつも寝ていてのんびりしてて楽ちんそうだから。」なんてことでしたが、アタシにはまるで理解できなかった。

 「怠けて暮らしていた」、せいぜいそんな意味だったのでしょうが、「死んだらどうしたい」、なんて分かりっこないじゃないか、まずアタシはそう思ってたものです。


 最近はあまり聞きませんが、「死んだらどうしたい?」なんて昭和の昔はよく言われた台詞でした。
 そんだけ落ち着きのない時代だったからなのでしょうかw。

 今は争乱や陰謀は飛び交っていますが、それなりに落ち着きはある。正義が見えている。
 誰が嘘なのか、どこが無責任なのか、それが見えています。


 まあ、死んだペットたちと再開できると思えるのは悪くはない期待なのですがw。



おそまつ




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