言葉の源流、「よそう」
昨晩のこと、家内が例の栗を売ってたスーパーにまた行ってきました。
そしたら栗のパックが全部箱から出されて「バラ」で売られていたんだとかw。
油断のならないアタシたちみたいなのがいると売り方を直したのでしょうw。
狩りは獲物の方だって命懸けですw。
さて、前にお話したことですが、家内は味噌汁をアタシとは別に自分のタイミングでよそってくるようになりました。
そのタイミングは完全にご飯を食べ終わってからというわけでもないらしい。
場合、場合でよそってくるのが違うようです。
なかなかアタシでは分からないことなので、これでいいのかも知れません。
こちらが世話する役となり客となる家内が食べる。
最初から全部が膳に並べられてて食事中は中座しない。
そういうのだとケジメがあっていいとは思うんだけど、家内が汁好きになってくれればそっちの方がいい。
汁好きのアタシに付き合ってくれて汁を一緒に味わってくれるならそれでいい。
ご自分で世話役と食事をする役を使い分けるというのもアリです。
ところでこの話をした時、「汁をよそう」という言い方には適当な漢字がないなとアタシは思ってたのです。
たいていは何にでも漢字があるものです。
それが見つからない。
家内が調べてくれた。
そしたらあったとか。ググルのは家内の方が得意。
「ちゃんとあるじゃない。」なんて言われちゃったw。
「汁をよそう」は「装う」から来ているというのです。
すると、汁を茶碗に美しく盛ってね、飾ってね、そういう意味から来てるんじゃないか、と。
それが語源であるとした出典は幸田露伴とか。
何でも出典はあるものですが近代の人です。
古事記や源氏物語、そこまで古く遡ったものではない。
幸田露伴という人は明治期に活躍した文学の人です。
「露伴、漱石、鷗外」なんて並び称される人なんだとか。
偉い人だったw。
アタシも名前だけはよく知っている人ですが著作を読んだことはありませんw。
「五重塔」? 読んだ覚えがないw。
小説家の他にも「考証家」なんてWikiにはありますから、「汁をよそう」という言葉の起源も考証したのかも知れません(笑)。
当たっていそうです。権威というのもあるでしょう。
でもそうではないかも知れませんw(笑)。
あくまで露伴の説と考えたほうがいいのではないかw。
何だって議論にはなるものです。
露伴が言ったからって正しいとは限りません。なにしろ言葉は生きているわけでw。
それなら、彼ら昔の文人が今の「アタオカ」とか聞いたらどう思うのか。起源はどこと思うのか。
「パリピ」なんて言ってたらどんな感じに露伴は思うのか。
想像するだに面白いものがあります。
「常識」という言葉があります。
これは福沢諭吉が作った言葉だと小林秀雄が言っていた。
「コモン・センス」という英語から福沢が作ったものだ、と言うのです。
それは妙訳であり慧眼だ、と。
それまで我が国には「常識」というような概念はなかったのだ、と。
「当たり前」と「常識」は違います。
共同体意識として「コモン・センス」というのは非常に明確なものがある。
福沢諭吉はそういうところを看破したのだ、と。
福沢は脱亜入欧論者として知られている人です。壱萬円札ばかりでもない(笑)。
そうした明確な起源が辿れる言葉もあるのでしょうが、いつの間にか言われるようになった言葉だってあるはずだとアタシは思うのです。
アタシは幼少の頃、福沢のお妾さんだったと言われる人のタバコ屋によく遣いにやられたものでした。
その婆さんをアタシはよく覚えている(笑)。
愛想のないニコリともしない人でしたw。
こちらをジロりと射抜くような目をしていたものです。
しょっちゅう買いに行かされたから向こうもアタシの顔を覚えたのではないかw。
アタシは「汁をよそう」ってのは「寄せる」から来ていると思った。
「よそう」のは何も汁ばかりではありません。
ご飯もよそうわけです。
ご飯を茶碗に盛る時、ペッタンこにはしません。
フワっとシャモジで中心が丸くなる感じに盛ってあげるわけです。
汁にしても真ん中に具を乗せて汁に浮かんでいるようにするのが美しい。
具が混ざり合ったようなよそい方はいただけませんw。スムージーじゃないんだから。
それは「装っている」わけでもありますが、具体的には「寄せている」とも言えます。
盛り付けのコツとすれば「寄せる」とできる。
オカズ、焼き魚や煮つけ、煮物、酢の物なんかは「よそって」とは言いません。
言ってみればあれは「つけている」のだとアタシは思う。
露伴の説は詳しくは知りませんが、盛り付けの手法、つまり「寄せる」とした方が具体的な言い方ではないだろうか、どうか。
席に混ぜて欲しい、お相伴に預かりたいという意味で「アタシも寄せて」なんて言い方もあります。
「装い」という言葉はハレに近い。
日常の盛り付けをそこまで特別な感覚から言うようになるものかどうか、と。
もちろん食事というものは毎日が特別なものともできますが。
「寄せるようにご飯をよそって」
「装うようにご飯をよそって」
並べてみると、どうでしょうかw。
こんなことをゴチャゴチャと考えているとタイムスリップしたような感覚になります。
楽しいw。
露伴と議論しているような感覚になる。
これが「古典に学べ」という意味なのかと思ったり。
アタシなどとんだ浅学ではありますがw。
ご飯をよそう時、シャモジをいちいち濡らすやり方があります。
ホテルのビュッフェなんかでそんな風にシャモジを水につけてたりします。
あれはちょっとどうかとアタシなんかは思ってしまうのですw。
炊いたご飯をよそうのにいちいちシャモジを濡らすのはよろしくないとアタシは思う。
ホテルだと色んな人がそれを使ってご飯をよそうのでベチャベチャになる。
シャモジを濡らすのは最初だけ。
ご飯が炊き上がったらお櫃に移して天地返しをします。
そうして湯気を立ててご飯を蒸らす。立ったご飯をふっくらさせる。粘りも出る。
その時にシャモジを使うのですが水につけるのはその最初だけです。
よそう時にいちいちシャモジを濡らしたりはしない。
レストラン側ではご飯がくっついてムダが出たりするからなんでしょうが、ご飯がベチャベチャになっている時もあります。
あまり気持ちのいいものではありません。
だいたい、そうするとカレーライスを頼んでスプーンをコップの水に入れている、そんなことをやる人もいます。それはどうなのか。
あまりいいやり方には思えません。歯医者じゃないんだからwww(笑)。
でもやる人はいる。
こういうの、考えれば色々とあるものです。
割り箸をこすってから使う、そんな人もいます。
あれは「バリ」を取っているわけですw。分からないでもない。
割り箸のトゲが刺さったとか、よほどのことがあったのか、どうかw。
割り箸を濡らしてから食べ始めるのはどうか。
乾燥していますから箸にご飯がまとわりつく。
それを湯飲みなんかにドボンと割り箸をひたして濡らしてしまう人もいます。
「ねぶり箸」はさすがに汚らしい。
いくら割り箸が乾燥してるからって唾液で濡らすのはいけません。湯飲みに漬けるのはその代わりでしょう。
アタシは見た目が下品だと思うのでたいてい汁にクチをつけるついでにやっています。
汁を飲むフリをして割り箸を濡らしています。
つまりアタシは割り箸を濡らすのを誤魔化してる(笑)。
割り箸のクチ当たりというのは気になるものです。
箸にご飯がまとわりつくとなんとも困ったことになります。オカズにご飯がついたりするのも見苦しい。
家庭で食べるなら塗り箸なのでそういうことはあまり気にならないと思いますが。
しかしスプーンをコップの水につけるのはどういう了見なのかw。
フォークやナイフではまずやらないと思うんだけど。
最近、プラ二郎のせいで割り箸すら有料という店がでてきました。
強制力があるわけでもない。なんで従うスーパーがあるのか。
呆れます。そんなんじゃ弁当なんて売れないでしょう。
しかも割り箸が2円とかべらぼうな値段しています。
便乗にしか思えません。
なんでそんなことになっちゃったのか。
「マイ箸を持ち歩く」なんてのを国民にやらせたいというのでしょうか。
専制君主にでもなったつもりか。
中国人に土地を買われてしまうような失政はするくせに妙なキャンペーンはやりたがる。
プラ二郎はダボス会議にも行ったらしいですが洗脳でもされに行ったのかw。
なんだか政治がおかしくなっている。世界中でおかしい。
そのうちコオロギを食ったらマイナポイントで還元とかやりかねない。
大衆を奴隷化するために選択の自由をまず奪おうとするわけです。
いずれはゴキブリを食わせるつもりでしょう。
割り箸廃止、割り箸を徒に嫌うなんて、そんなの別にエコでも何でもありません。
昔から疑問が呈されていたことです。
森なんて手を入れてないといずれは死んでしまうのです。
森林には寿命があります。
森林は歳月とともに植生が変わり、歳を取り、最後は木が生えなくなります。
そうして山火事になりその栄養でまた森林が再生する。森は生まれ変わる。
そんな森林の自然のサイクルの最初の樹木が「白樺」だという話。
若い森は白樺林だそうです。
我が国は森林を大事にしてきましたから手が入り緑がずっと生きている。
芸術家の集まりで「白樺派」なんてのがありましたがw。
大正デモクラシーw。
その自由主義なんて現代ではまるで違ったものになってしまっています。
最近はやたらと自由が奪われている。
食糧危機をでっち上げ、大衆はコオロギ、ゴキブリを食うように誘導している。
おそまつ
