鍋汁を薄めちゃダメ!
クリスマス・イブだからって浮かれてはいけない!
今年は西側世界には最悪のクリスマス。
だいたい毎度、毎年、いつもそんな風な誤魔化し、もう飽き飽きだ!
悪い予感しかしない世界の未来への絶望が、ほんの少し先延ばしされるというだけです。
ロシアの「崇高なるウクライナ武装解除作戦」。
続けさせようと武器を送る悪魔たちがクリスマスを白々しく祝う。
「クリぼっち」だっていいではないか。
こんな夜にだってつましく鍋にしてもいいではないか。
毅然として日々を生きるのです!w
西側の教会なんて嘘ばかりです。
その蝋燭の灯も、聖歌のテレビ中継も白々しい。
メリクリもほどほどがいいのではないかw。
アフガンではタリバンが女性の大学教育について禁止令を出した。
早速これに噛み付いたのがアメリカ、西側です。
無数の少年を長年にわたりレイプしてきたカソリックの司祭連中、先住民を虐殺して埋めてきたカナダ教会の隠された庭先、そしてウクライナ、アメリカからパトリオット・ミサイルまでが供与されようとしている狂気。
そんな西側の連中がムスリムの秩序に口を出す資格などない。
他人の国にクチを出すな。
今晩はそれぞれの想いを食卓に乗せて。
ウチはいつものチキンのオレンジ煮とクリスマス・シュトーレン。
リア充というわけではないw。
いつものことを粛々とやる。慣れた習慣を大事にしてるというだけです。
振り返ればアタシにも歳の数だけのクリスマスがあった。
それなら、毎度お馴染みの「鍋噺」でもいたしましょうw。
うん。それがいいw。
このところ連日、ウチは鍋をやっています。
どうも最近、便通、腸内環境がよかったのは小松菜のおかげだったかも知れないと思い至った。
そりゃあ鍋なんて毎年寒くなればやってんですから。おかしいと思った。
それでも小松菜はあまり使ったことがなかった。
安く手に入ったからと、大きな束で五束も食い続ければ効果はてき面ではないか。
その含まれたしゅう酸がいいのか、鉄分がよいのか、ともかくお通じが快調でしたた。
腸内環境の整備に、小松菜を是非お勧めしたいw。
鍋は冷凍庫を整理しながら正月に向けての支度、始末ということもあります。
色んなものを投入できる寛容さがあるから食材の整理に鍋はちょうど良い。
わずかに残ったアカイカ、パスタにしようと思ってたんだけど、なかなか出番がなくて取り残されてしまっていた。
ホタテ貝ヒモ、佃煮にする予定でしたが機会を逸していた。
なんだって鍋に入れてしまえば美味しく食べられます。
肉や魚、まとまった材料でなくともいい。
なぜか毎年、年末だけ特有の強迫観念。
あと十日、あと九日、なーんて、追い立てられてしまう師走です。
月の終わりを数えてしまう。
だけど時間をかけてゆっくり鍋をいただくと気持ちが落ち着く。
考え事も、お喋りも進む。ゆっくりと食事を取れば有意義です。
急がない、急がないw。
今度は鶏鍋にした。
骨付きを下茹でした本格鶏鍋ではなくて、ただの鶏のムネ肉をメインにしたシンプルな鶏鍋です。
鶏肉は削ぎ切りにして硬くならないように工夫します。
ムネ肉でもこうして繊維を崩すようにして切れば意外と美味しいものです。バカにしたもんでもない。
しかし鶏ですからもちろんダシが出ます。
アタシだけでなく家内もこのダシを気にする。
注意を払うw。
鶏は甘いダシが出ます。
特に鶏の皮からは脂が出る。それがとても甘く感じるのです。
翌日の汁を楽しみにしながらの鍋です。
卵?
もちろん卵でシメましたとも(笑)。
しかし、それを「親子鍋」と言ったらよかったのか、どうかw。
鍋を始めると、家内がしょっちゅうお湯を足してくる。
沸かしておいたお湯をサーモスに入れておいたもの。「足し水」よりエネルギー効率がいい。
家内は常に鍋にいっぱいになるほどお湯を足す。
いつものことですが、今日はちょっと気になった。
そこまでお湯を足さなくてもいいでしょうに、とアタシ。
すると、
「鍋汁を薄めちゃダメ」
って家内は言った。
? ん?
いつも聞き流しているけど今日は変じゃないかと突っ込みますw。
薄めてるのは君じゃないか。そんな風に湯を足して。
「だから、薄めないようにしてるんでしょ。」
「いいダシがせっかく取れるんだから。」
またそんなことを言う。
訳がちょっと分からない。
お分かりいただけただろうかw(笑)。
暫くアタシは家内の言う意味が分からなかった(笑)。
前から気にはなってたけど、目の前でどんどん鍋にお湯を足してゆく家内。
それがなんで「薄めるな」という主張になるのか。
薄めてるじゃないか。
どうやら、残りの鍋汁が薄まらないように常に一定の湯量にしておきたい、ダシが徒に消費されないようにしたい、そういうことらしい。
鍋が煮詰まって鍋汁が少なくなったまま食べ続けると、そのダシを食べてしまうことになります。
ダシはどんどん抜けていってしまう。
味噌汁なんかに残りの煮汁を使う場合、ダシ成分が少ないものになります。
だから食べながら鍋汁のダシ成分が少なくならないよう調整している、そういう意味なんだとか。
? ? ?
なんか分かったような、分からないような話ですが、どうか。
アタシの考えが至らないのか、家内の言葉が足りないのか・・・w(笑)。
煮詰まる=濃い。
食べる=ダシ成分が抜けてしまう。
お湯を足す=薄くなる。
お湯を足しながら材料を煮る=薄くならない。
んーーーー。ふーむ(笑)。
言葉って難しい。
「薄めちゃダメ」と言って薄めてる矛盾じゃなくて、ダシ成分を減らさないようにしてるという理屈。
こういうダシが出た鍋汁を味噌汁にする時は安い味噌の方がいい。
あんまり上等の味噌だとそのダシの味わいが隠れてしまいますw。
たいていは濃く味がつきますからホントに僅かの味噌で美味しい汁になる。
香りづけにユズを少しふるなんて最高です。
考えてみれば、いわばこういう鍋とダシを味わうことこそ「リバーシブル」なのです。
「リバーシブル料理」w。
表の「鍋」に対し、裏の「ダシ」ということ。
表と裏の両方を味わう妙味があると言えます。
「リバーシブル・ジャケット」なんてタイプの服があります。
裏表どちらでも着れるもの。
しかし世間一般ではこういうのはあまりお洒落とはされていないように思う。
とかく兼用というのはバカにされる傾向があるのではないか。
しかし使えるっちゃ使えるのです。
汚れたら裏返せばいい。
いつも同じものを着てるなんて人に思われない。
悪いことをして逃げる時、角を曲がったら服をひっくり返せば目撃情報と違う服。
まんまと逃げるパン三世ww。
アタシはこのリバーシブルに妙な義理立てをしてしまうのが常です。
いくら表の色が気に入っても、裏も使ってやろうとつい情けをかけてしまいます。
せっかく裏も着れると主張しているのに使ってやらないのは可哀想だと思うから。
この服には表も裏もないのだと、公正になるよう妙に気を遣ってしまいますw。
公正な世の中をアタシは願う。嘘や欺瞞で溢れた世の中に絶望する。
しかし、もしかしてリバーシブルが「お洒落とされてない」って感じなのは、そういう「温情」みたいなものを甘いとするからでしょうか。
服なんてきっぱりと決めて着るものなんだ、と。
裏地を気にしたり、見えない裏方を気にするようではカッコよくミエなど切れないではないか、と。
そんな感覚なのか、どうか。
それとも、とかく便利なものは無粋とされるのかも知れません。
粋ではない。
覚悟がない。思い切りが悪い。
鍋にしたって、ガツんと食って残り汁はあっさり捨ててしまうのがいいのか。
シメはご飯でおじやにして、汁もすっかり食べきってしまう。
そういう思い切り方の方が粋なのか。
しかし、アタシはそういう「粋かどうか」という感覚には、どこか諦観、すなわち「諦めの境地」みたいなものが潜んでいるような気がしてなりません。
「宵越しのカネを持たない」みたいなもの、そこには実は諦めがあったりするのではないか。
人生なんて上手くいかないことの方が多いのさ、なんて。
きっぱりした踏ん切り、なーんて言ったところで先の見えないことの諦めではないか。
追い込まれてその落ち着くところに諦めの境地でいる。
だからどこか忙しい。
反面、リバーシブルなものは穏やか。余裕があると言えるのではないか。
江戸の暮らしを思った。
西洋などクソ食らえだw。
彼らは毎日、生きることに必死に過ぎた。彼らにリバーシブルはなかった。
めいしくおしあがれ
メリー・クリスマスw♪
