ヤツが隠される夜
あいつはいつもこちらに顔を向けている
素直なヤツだ
いつも正面を向いて堂々としていようだなんて心を決めて
律儀なヤツだ
カミソリのように鋭く光って心を突き刺す時もあるし、
笑って穏やかにしている時もある
落ち着き払って澄まし顔、知らん顔のこともある
いきなり大きくなって不安にさせたり、
鮮やかな青白い色で胸いっぱいの希望を持たせてくれるときもある
血色がよく元気なときもあるし、
憂鬱に愛想笑いを返すときもある
一生懸命に真ん丸になって笑わせてもくれる
にじんで見える時だってある
眩しくて見ちゃいられない時も
いつも疲れを癒してくれ
錆び付いた心を洗い流してくれる
そばにいてくれるだけでいい
今日はどこへいるのかな、なんていつも探してしまうアイツさ
今晩ヤツが隠される
アタシたちの影がヤツを暗くする夜だ
夜の暗さを思い出す時だ
魂の暗き深淵がわずかの間だけ夜空を覆う
それはアタシたちの姿、心の闇
この世を投射する幻灯機
希望も絶望も自由自在、
誰も嘘のつけない夜のひととき
じっと眺めればアタシたちの心が見える
時々覗ける鍵穴のようなものだ
そこに何を見るかはこちら次第
お楽しみのひととき
今晩はあいつが少しだけ隠れる夜
人々が心の影を映し、
気付かなかったことが現れる
幻に怯えるも郷愁を呼び覚ますもお気に召すまま
あいつとは長い付き合い
誰よりもそばにいてくれる約束だ
アタシもそれに応えよう
やるべきことを果たす約束をしよう
悠久の時の流れをたゆたえて、
アタシたちを見つめる
「ヤツがいる?」
「ああ、あそこにいるよ」
アタシと家内はよくそんな風に月を探します。
昔の人は毎日そうして探したから今日はどこにいるのか見当がついたのでしょう。
古代の人たちはアタシたちよりずっと大人だったかも知れません。
アタシたちは知っていることが多いというだけ。
このところすっかり空を見上げることが多くなりました。
真実が見えにくくなったからか
不穏な世界になったからか
汚い現実を見なくて済むからか
アタシたちは夜空を見上げてみる。
そこには相も変わらずヤツがいる。
自然とアタシたちは手をつないでいる。
星が流れると誰かが去ったのだと、それも信じられる。
皆既月食。
「明かりを消して」
なんてアタシは言って欲しくなかった。
よく見ていたいじゃないか。そんな時がありました。
大丈夫、見えなくても無くならない。
無くなってもそこにずっとあるから。
今は分かる。
暗闇に怯える嘘つきたちがいる。彼らは陽なたの陰を好みます。
アタシは昔から夜を好んだ。
月明かりが邪魔に思ったこともありました。
夜は漆黒の闇ではない。本当の闇は別にある。
今夜は気持ちを鎮めて心穏やかに、
そうして少し見ていましょう。
これから7時16分から。
寒くしないように。
おうぞどたのしみに
