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脳内の声、心の声、魂の声


 コメントいただきありがとうございます。

 先日から改めて見ている「孤独のグルメ」ですが、このドラマでは「脳内の声」として主人公とは別な人がアテレコをしています。
 「声を当てている」わけですw。

 これはこのドラマのかなり特徴的な部分です。

 私たちは無意識にこんな声の存在があることに共感していると思います。
 こういうものだと自然に受け容れているはずです。

 しかし、この「声」というのはいったい何なのでしょう。
 私たちはなんとなく納得してしまっていますがwww。


 この声は孤独に外食を楽しむ主人公の「自分自身」と言ってもいいものです。

 主人公がどんな風に食事を味わっているかは外からは分かりません。
 彼は外からみれば料理を注文して食べているというだけです。

 その「声」を通じてでしか私たちには彼の気持ちは分からないのです。




 ドラマでは、井之頭五郎自身が外食で注文を迷ったり、店の様子に驚いたり感心している様子が声による「呟き」の形をとって表現されています。

 でも、考えてみると、こういう「呟き」や「声」というのは本当に実体としてあるのか、どうなのか。
 ドラマの中だけでなく、私たちにはこんな「声」というのが日常的にあるものなのでしょうか。
 私たちもこんな「声」を呟いているのでしょうか。

 そしてそれは誰に発信しているのか?
 どこに対して?

 これは「心の声」ということなのでしょうか。


 そこまで考えるとちょっとおぼつかなくなってきます。
 どうもそれが「声」かどうかさえハッキリしないのではないか、と思ってしまいます。

 「心とは何か」ということになるからです。

 その声は私たちの「自分自身」から発信されたものであることだけは確かなのですが。
 どうか。




 私たちの「自分自身」という存在がこうした呟きのようなことを何らかの形でしているという実感はあります。
 それは間違いなく感じる。

 私たちの中には「自分自身」というものがいて何かを発信している。
 その発信の宛先は「私」です。

 「自分自身という絶対の存在があって、それが「私」に語りかけています。
 それは「ある」と言うしかない「自分自身」という絶対の存在です。

 それが「魂」や「心」というものかも知れません。


 一方、私たちは外で他人とお喋りしたり買い物をしたり、色んな行動を取ります。
 息をして歩いたり食べたりしているそんな「私」というものがあります。
 それは名前があり顔があり表情がある「私」というものです
 鏡を見ればそこに「私」はいますし、人々は「私」を見ています。

 「私」とは、「自分自身」という絶対的なものに対して相対的なものです。

 何かをすることで、あるいは物理的なものによって「私」を確かめることはできますが、尺度が変わればその姿はいくらでも変わるものです。
 それは社会や外部とつながっているが故の「私」であって、絶対的な存在ではありません。

 その「私」は、死ねばどこかへ消えてしまうのです。



 死んだらどこへ消えてしまうのか分からないのは「私」が相対的なものに過ぎないからです。

 「私」というのは物理法則などの外部要因から決められるものだからです。
 正直、その「私」というものの正体は知れませんw(笑)。

 自分という絶対的な存在からの「声」の発信を受け止める「私」は相対的なものですから、その存在は常に揺れ動いているからです。

 だから、もしその「声」がなかったら機械であってもいいぐらいw。
 生物という、規則性と合理性がある機能的な有機体に過ぎません

 私たちは呼吸を「エクモ」に代わらせることもできますし、腎臓機能を外のフィルターに任せてしまうこともできます。

 つまり「私」を決めるものは外にあって、結局は外との関係次第で変わってしまうのです。


 それは眠っている時とは違います。
 ポツンと誰もいない荒野にひとりきりでいる時の「自分自身」とは違うものです。

 眠りに入れば外の世界から見られている「私」はいません。
 どこかに消えています。
 起きれば、まるでコンピューターを再起動させたように「私」は物理的な現実に戻ってくる。

 「自分自身」という絶対の存在は、そんな風に外とつながっていることでやっと確かめられるような「私」とは違うものです。
 「自分自身」はそんな不安定で儚いものではありません。




 物理的なもの、つまり外部要因とのつながりを前提とした「私」とは別に、「自分自身」という「存在」があって、それが「私」に語りかけてきます。

 気持ちいいと感じたり寛いでいると実感したりする「感じるということ」、その元となっているのも「自分自身」です。


 ただ、「語りかける」と言っても「声」というわけではありません。

 私たちはなんとなくそれが声のようなものだと想定をしているに過ぎません。
 それが説明しやすくて納得しやすい。分かりやすいというだけです。


 もちろん、それが音声ではないとも言えません。
 音声のような気もしますが文字のような気もするし、映像のようなものでもある。
 なーんとなくです(笑)。なんとなく私たちは「声」ということにしている。

 しかし私たちにそんな発信をしてくる「自分自身」があることだけは確かです。
 それはホンモノの自分。
 存在の実体であることは実感で分かるものです。
 それを私たちは「心」とか「魂」と呼んでいます。

 それは脳の中にあるAIやコンピューターで置き換わったりできる論理性とか、記憶をつなげたり並べ替えたりするような演算機能を越えた存在です。




 こんな「自分自身からの声」というのは、ドラマの中での「表現」に過ぎないのでしょうか。

 クチに出さずにミュートして、頭の中で言葉を発してみることはできます。
 明らかにそれは「音声」として感じられます。
 脳を働かしてみればやってみることはできる。だから「脳内の声」もあるのかも知れません。

 そんな「声」があることを否定はできません。

 しかしどうも普段から感じている「声」というのは脳を使っている感じがしない。
 「自分自身」というのは「私」とは別なもので、「声」とは「自分自身」という絶対の存在が外向きの「私」に何かを発信をしてくること、そんな気はしないでしょうか。


 もちろんそれが「声」だとしても、それは独り言ではありません。
 他の誰かが聞けるわけではない。
 声や音声であるとしても、それはあくまで周囲には聞こえない声です。
 音とすることはできません。

 このドラマではそれが特別に聴けるというだけです。
 テレビドラマの視聴者は主人公自身からの呟きを聴いているわけです。

 ドラマ作品ですから別な声優が音声を「アテて」表現しているだけなのですが。




 アタシはこれを「脳内の声」と呼びましたが、これを「心の声」と言い換える人もいます。
 「魂の叫び」などという言い方もあります。
 すなわち「魂の声」と言い換える人もいるかも知れません。

  はて。脳内の声、心の声、魂の声。
 そこに何か違いがあるのか、その声の源泉はどこにあるのか、どうか。


 アタシが「脳内の声」と言ったのは、「頭の中に響く声」というレトリックからです。
 脳味噌のどこかにそれをつかさどる部分があるのかも知れないと思うからです。
 それは脳があってこそ意識があり自分があるのだという定説を前提としています。


 人間が考えたり思い出したりするだけでなく、様々な感情が湧き上がることも含め、それは脳がつかさどっていると言われます。
 そして人間のカラダを制御しているのは脳味噌だから、逡巡や懊悩、「私」を第三者的に眺めたりする感情もまた脳による働きであるという認識です。

 では脳には「私」と「自分自身」が同居しているのでしょうか。


 そうではないという人もいます。
 自分という存在は脳味噌という生態コンピューターの作用の結果ではない。
 記憶やニューロンの働きだけで自分自身という絶対の存在が生まれるわけはないのだ、と。

 それが「心」という場所ではないのか、そんな捉え方です。

 「心の声」というなら、それは「感じること」としてもいいかも知れません。
 感じるというのは「胸の内」、そんな表現もありますからでは心は胸の辺りにあるのでしょうか。




 味覚にしても暑い寒いの感覚にしても、舌や皮膚から脳へと信号が伝わって感じることです。

 つまり皮膚がなければなりません。
 まず舌というカラダのパーツがなければ味覚は脳に伝わりません。

 美味しいという判定を脳が下すとしても、まずカラダがなければ感覚は生じません


 「人間の心はどこにあるのか」、この命題は古くて新しいものです。
 心というのはカラダ全体としてあるものなのか、脳味噌のどこかにあるものなのか、それとも他のどこか別なところにあるのでしょうか。

 そもそも「心」とは何でしょうか。


 「脳死」というのは、「人間は脳が死ねば死んだも同然だ」という考え方からきています。
 脳がなければ人間は自律的に生きてゆくことが出来ないからです。
 そうして脳死判定をして臓器の移植をしたりします。

 脳は人間の生体活動を制御しているので、「脳が死ねば死んだことにできる」、というのがその根拠です。

 これに反対する人もいて、人間は脳ばかりではない、カラダも含めて全体で生きているとできるという主張もあります。

 たとえ人工呼吸器をつけねばならないとしても、存在と意識はそこにあるとできます。
 補助があれば脳がなくとも生きてゆけるのです。
 だから何も人間存在とは、すなわち心や魂は脳の機能ばかりではないという主張です。


 つまり逆に「肉体がなければ死んでいる」、ともできるわけです。

 培養液の中で電気的に脳が生きてゆけるとしても、肉体がなければ死んでいるともできます。
 脳だけで自律的に生きていくことはできません。
 だから脳を心の在り処とすることはできない、脳味噌は単に生態コンピュータと変わらないのだ、という見方です。




 私たちに聞こえてくるように思えるあの「声」はどこから来ているのでしょうか。

 ドラマで表現されている主人公の五郎の声があくまでドラマ上の表現であるとしても、似たような発信はあります。
 どこからか「私」へとされているのです。

 それは心や魂から「自分自身」が発信しているのでしょうか。

 映像表現では声優のアテレコですが、私たちには同じような発信を自分自身という絶対存在から受けている、そんな実感はきっとあると思います。

 その「声」なるものはどこから来ているのでしょうか。
 私たちの心や魂がどこにあるか、どのようなものかは判然としません。

 しかし、反対に、もしその発信の出所を突き止めることができれば、「心」や「魂」というものがどこにあるか特定できるはずです。


 しかし、残念ながらその発信は非通知ですwww(笑)。


おそまつ





※ 本ブログではお売りする壷はございませんので、あしからず、ご安心をw(笑)。


 そういや、アタシは昔は統一教会系企業というので「なとXXり」ってのがそうだと思ってました。
 あの大相撲の土俵で呼び出しさんが着ているものにも書いてある企業ですが。

 どうもそれは誤解だった。
 統一教会の信者が修行だかで、夜中に部屋をノックして珍味を売りに来るという話で出来たデマだそうです。

 アタシ自身は統一教会の珍味売りにはアタシはお目にかかったことはありませんが。

 まあそういう誤解があった時でも「チータラ」は買ってましたが(笑)。
 美味いんだもの。自己責任でw。


 タブレットで有名な「ワXXコム」というのは昔は統一教会企業だったらしい。
 創業者が信者の方だった。
 なんだ、普通の製品も売ってるじゃないかwww。

 その後、介入を拒否した会社側は統一教会と絶縁しています。


 怪しい宗教団体というのは新興宗教でなくともあります。

 「比叡山延暦寺」は暴力団山口XX組の法要を盛大に挙げました。

 反社会勢力にハクをつけることになるから止めておけ、という警察、他の宗派、宗教界からの忠告を無視して葬式を強行しています。
 その後に延暦寺の幹部は辞任し、暫くして暴力団の参拝を拒否するよう通知したようですが、なぜ強行してしまったか、どのような関係があったかは明らかになっていません。

 武装勢力として織田信長に焼き討ちされても懲りてなかったwww。


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