酒は呑め呑め呑むならば
とある漫画家がふと漏らした言葉に人々は共感できたかどうか。
ある漫画家が言った。
あまりマンガ自体は知らないが、きっと成功している部類の人だろうとは思う。
その人は「アタシは自分のプライベートを晒して作品にしてるのヨ」なんて、自虐っぽく語ったものだ。
まあ、言っていることは分からないでもない。
プライベートを晒して自分の恥や悩みをさらけ出し、見てもらうことで稼ぐなんて、身を切り売りしているイメージではある。
人の人生は一編の物語だ。誰にでもそんな価値がある。
葛藤し、迷い、喜び、感激に打ち震える。日々は驚きの連続だ。
ただ、それは増えこそすれ減ることはない。
だから「切り売りしている」と考えてしてしまうことは危険だ。
やがて減ってゆくだけの罠に陥ってしまうからだ。
もちろん、「切り売り」するどころか、見てもらうのが大好きという人もいる。
あるいは、異常なほど自己愛が強く、常に自分中心、見られてないと気が済まないという人間。
人に見てもらうことでしか自分を保てない病質さえ存在する。
正田美智子なんてのはその筆頭の一人だろう。
世が違えばどんな犯罪もやってのけたような人間に思える。
奇怪で性悪、怪しく劣等な出自と育ちを自己肯定で糊塗し享楽に耽ってきただけ、節度など望むべくもない。
あれほど異常な自己中心的な人間を皇室に入れて権力を握らせてしまったことは戦後の我が国の不幸だった。
連れ合いの色欲に狂った男のアダ名は「茶色い豚」だった。
物資の足りない戦時下に臆面もなく肥え太り、遊びまわって日焼けしていたことから呼ばれたニックネーム、「チャブ」。虚ろなその伴侶、平成天皇である。
その平成天皇夫婦は安倍総理がクビにした。
もはや後戻りできないほどの目に余る放蕩と専横による措置だったが、法を無視して「退位したい」などと世間に特別法さえ要求し、その挙句にクビになった。
その判断はもっと評価されてよい。
これからの栄えある令和の世を今の若い世代には謳歌していただきたいと切に願う。
同時に、秋篠宮の「廃嫡」こそ我が国が選択しなければならない正しい道だと思う。
しかしそんな人間の話はあまりに例外に過ぎるだろうか。
言葉に尽くしがたい美智子の邪悪さは天皇家を今でも蝕んでいるが、マスコミの美智子らについての報道はウクライナの御用報道と同じようにいかがわしく、ほとんどが操作されたものだ。
マスコミはその責務を放棄している。
だから国民はこんな堕落した皇族を唾棄しながらも飼い続けるしかない。
それならエリザベス女王にしてもどうなのか。
最近、即位70年を祝う「プラチナジュビリー」の式典があったが、英王室が「子供狩り」に耽っていたという疑惑はある。
アンドリューの買春、人身売買、レイプ疑惑は裁判途中で示談という暴挙に出たため何もかもがうやむやのままだ。
似たもの同士ではないか。
最近はすっかり西欧に対して疑念しか持てなくなってしまったが、ヒトが担がれるだけの空虚さに身を置き続けるとそうなってしまうものかも知れないw。
義務を果たそうとする使命感だけが人として失わぬ道だ。
選ばれたことに酔ってはならぬ。
「自分のプライベートを晒す」
この言い方からすると「自分を削ってる」なんて感じに受け取れてしまう。
しかしそれは逆ではないのか。
私も自分のことで言いにくいことを言うことがあるが、そこに得体の知れない重たいものを感じるからだ。
話すことで私は少しでもその重みから解放されたいと願う。
何かを見知らぬ人々に話すことで、私自身も振り返れるというのが本音だ。
私からすれば「見てもらっている」という、それは内省できるという「効能」に他ならない。
感謝しかない。
「人は誰かに必ず見られている」、それは自意識と言えるかも知れないが、担がれて中身を奪われるのではない。
自分はこうであれと、まず自分がオノレを見るのだ。
そうした意識は胸を張らせ襟を正させ、結局は自らを救うことになる。
裸になるのが商売のストリッパーが言う。
「アタシはなりたくもない裸になって金を稼いでるのよ!」
と。そんな類のタンカはよくあるもので、説得力があるかのように聞こえるが、そんな踊り子のショーはポンコツだ。
「じゃあアタシがやったげる! アタシをステージに立たせて!」
だったら、そんなことにもなりかねない。
露出趣味の人だっているんだからw(笑)。
嫌ならやらなけりゃいい。それどころか、嫌だったらやっているわけがないのだ。
だから、こういうことは「言ってはいけない」、そんな類の言葉なのだろう。
何でも一線というのがある。
「一線」。
そういう主客転倒をさせてしまう言葉というのは怖い。
人生がいつの間にかスリ減ってゆくようになり、権威が空虚にスカスカになってゆき、スポットライトが色褪せてゆく。
これまでとはまるで違って見えてしまう。
そのために越えてはいけない言い方というものはあるのだろう。
たとえわずかの言い訳にしても。
それを自分の耳が聴いてしまうのだから。
バンドのボーカルが「俺がいないとこのバンドは成り立たない」などと言ってしまう。
メンバーの関係は突然にギクシャクとして解散し、ひとつのバンドで輝いていたはずのメンバーはそれぞれが自己露出と自己主張に耽るようになる。
彼らには過去しかなくなり、「元某」というだけの存在に埋もれてしまうだけだ。
そうして削られ磨耗し、忘れられてゆく。
せいぜい目立てるようピエロとして生きてゆくしかない。
あるいは、客が出された料理に「こんなの自分でも作れる」と言ってしまったりする(笑)。
すると、食べている料理がとたんに値打ちのないものに感じられてゆく。
俺ならもっと踊れるさとダンサーに、アタシの方がキレイだとモデルに。
守ってもらうはずの兵士に「俺も銃を取る」などと言ってしまったり。
主客が転倒してしまうのは危ないことだ。
主体と客体、晒しているのか見せられているのか、物事というのは表裏一体だ。
何でも表と裏がある。
だから、たとえ言葉のアヤにしても自分がやってることには言い訳はしない方がいい、そうでないと自分の裏面を自分が背負うハメになる。
それは危険な陥穽だ。
そうしてそのうち、「やらされている」状況に追い込まれる。
それは自己犠牲でも何でもない。
やりたい奴がやる。これを忘れないようにしないといけない。
そうでないとそのうち、やらされたり、やらせるようになったり。
我々は希望とともにやっているのだ。
希望に胸躍らせる気持ちを恥じることはない。笑顔を絶やさず取り組んでいこう。
我、人知れず微笑まん。
そう私は思っている。
昔は、そうやって後ろ向きな言い方がよく戒められたことを振り返る。
後悔とか言い訳とか、弁明はあまりいいものとはされなかった。
余計なことは言うな、くよくよするな、ただ成すべきことを為せ、と。
まさによく言ったものだ。
「男は黙ってサッポロビール」
www(笑)。
後悔よりも反省が必要とされた。
どこかに誤りはなかったのか、嫌でも省みることが大事だと教えられた。
割と間違ってはいない訓戒だったと思う。
まあ、たいていはそんなことをいう奴は酒を呑んでいた。
酒臭い息でそんな説教されてもなかなか通じなかったものだ。
今、自分も毎晩の酒を呑むようになり、そんな訓戒を素直に思い出すことができる。
呑まれないように、呑む。
飲んだら乗るな。乗るなら呑むなw。
おそまつ
