家の汁はなぜ不味かったのか
汁が不味い。
そういう家は大変だ。
味付けがおかしい。どうも記憶に残らない汁だ。ピンとくるものがなかった。
テキトーに作られた汁というのが分かる。
ご飯でお腹が一杯になってしまうと、そういう汁は飲み干すのが苦痛にさえなる。
澱んだ汁は捨ててしまいたくなる。
そんな家で私は育った。
不味いと思うものには心がない、それは薄々知っていたw。
私は錫の盃を「味見用」の道具として使っている。
小さな盃に汁を入れ、小さいながら汁をすすって味見する。
味見するやり方には色んな方法がある。
まずスプーンでちょっとひっかけるようにして飲むという方法。味見した後はスプーンをシンクに投げ捨てて実に手軽だ。
西洋のコックがよくやるやり方だ。いかにも自信のありそうなコックのやり方だ。
ただ量が少なくて味を誤解することがあるかも知れない。
しかし濃厚なソースぐらいでしか使えないやり方かも知れない。
舌は感じるところが舌の場所によって違うからだ。
椀の蓋、小皿などを使う方法もある。
和食ではこれが一番よくされると思うが、皿から流し込む汁は普通の椀とは食感が違う。
サラサラと舌に乗せる感じになる。ほどよく冷めていて便利はいい。
香りは分かる。しかしクチに含むということをしないから喉ごしは違う。
すすることをしないから、椀から飲む本番とは違うわけだ。
一流のプロはやはり普通の椀を使うようだ。
少量でもちゃんと椀に入れて味見をしている。椀の中に鼻を近づけるから香りも分かる。そんな動画を見たことがある。
味見には「発見」、アタりを探るというところがある。
私が「味見用」に使っているものは三個セットの錫の小さな盃で、すすることができる。
使い終わったらシンクに投げれるという手軽さもある。
手軽な味見の道具として使うようになって重宝しているが、道具として正解かは分からない。
これを手に入れた時、最初は特に興味もなかったのだが店主が「日本酒がすごく美味しくなる」なんて言った。
あまり日本酒は飲むほうではないがその言葉にはどこか惹かれてしまうものがあった。
器で美味しくなる、あるいは不味いないなんて、そんなことがあるだろうか、と思った。
試してみれば確かに味はまろかやに思えた。
安い日本酒が上等の仕込みされた酒に思えた。
ただ、私はあまり日本酒は飲む方ではない。
使いあぐねていたら汁の「味見」によいかも知れないと使い始めた。
この盃で味見をすると、どの汁も美味い。
どれも美味く感じてしまう。
ただ、美味しいのはこの味見用の盃のせいもあるかも知れない。旨味やコクが割り増しされているのではないか。
普通以上に美味しく感じてしまうのかも知れない、私はそう疑った。
そうだとしたら、これで味見をして作った汁をいざ汁椀で食べても物足りないというわけだ。
味見の盃でまろやかに感じられても実は薄い、とか。
試食販売がことさら美味く感じるのは量が少ないから、などと言う。
サーティーワンアイスの試食なんて、どれだけ美味しいと思ったことか。
家内と知り合った時に教えてくれたことだ。それまでは私はそんなサービスがあることもサーティワンも食べたこともなかった。
試食があるから美味しいと思えた気がした。
「ロッキーロード」なんてのをよく食べた記憶がある。振り返れば家内に連れて行かれた店は女の子ばかりだったw。
それなら盃の味見で感じた味より濃い目に作ればいいだろうか。
美味いと思えても、もっと美味くしておかないといけないのではないかw。
実際の椀で飲んだら物足りない味なのではないか。
しかし「美味い」といっても、「もっと美味くする」なんてどういうものか。
そんなことがあるのか。私はないと思うw。
「美味いものは美味い」というだけ。そこを探るのが「味見」ではないか。
よく、「こうしたら二倍旨いんだぜ」なんて言い方をするが、それはトッピングとか食べ方の話が多いように思う。
単に言葉のアヤのように思える。
「美味い」という絶対感覚は上や下などのレベルはないのではないか。
美味しく感じられる道具を使ったとしても、味が底上げされるわけではないはずだ。
「味を探ること」、「作ろう」という心があったモノに嘘はない。それは本当だろう。
程度によらないものこそが真実なのではないかと思う。
この手の感覚というのはレベルではなく探り当てるものだ。
ピタリとハマればそこが当たりだ。ピンポイントなのだ。
だから、「すごく幸せ」とか「少し幸せ」なんてのも、どこか違うのかも知れない。
幸せならそれでいい。
それが探り当てたものならどんなに小さなことでも嬉しく感じる。
「美味い」と感じられることが満足だ。
どうやら今場所では幕下のロシアとウクライナの対戦はないようだ。残念だw。
来場所に持ち越しとなるが、その頃には紛争が収束しているだろうか。
鳴門部屋のブログを紹介したが、あれは困る(笑)。つい見入ってしまうw。
眺めているだけでも太りそうだwww。
温厚な親方のシンプルな文章も味があるw。いつも美味そうでいつも嬉しそうだ。
鳴門部屋の食事の豪勢な食材は考えればちょっと不思議な話だ。
どだい相撲取りがカラダを作るというならミスジなど肉の部位など関係ない。上等な佐賀牛など意味はない。
イクラやウニなんかより、とにかく力士には「ちゃんこ鍋」とコメを食わせて体を作らせるのではないか、そんな風にも思えるからだ。
しかし、美味いものを食わせてやろう、そんな気持ちは弟子のモチベーションにつながる。
それに美味いものを食っていれば余計なことは考えない。
色モノ、キャバクラのことなど考えもしなくなるだろう。性欲と食欲は両立しないw。
鳴門部屋は「番付が上の者から順に食う」ということもしないようだ。
弟子も増えて番付を上げている。今後も楽しみだ。
以前はよく聞いたことだが、各部屋で「ちゃんこ」の味が違うという話がある。
今日、三段目優勝を決めた神埼の部屋、武隈親方は元豪栄道だ。
彼が現役時代、彼の部屋に力士が出稽古をしに行くと、他の部屋の力士はいつも「こんな美味いものを食べてるのか」なんて驚いたという。
そんな話を聞いたことがある。
豪栄道の境川部屋は「ちゃんこ鍋の素」を売り出した相撲界の先駆けである。
だが、この話を私は誤解していたかも知れない。
どうやらこの逸話は「味」のことではなかったと今では思うからだ。
プロはだしの料理が並ぶとか、味付けがいいとかそんなことではない。
良い食材がふんだんに使われているか、ケチケチせず贅沢な食材が使われているかどうかというだけだったと私は思う。
だから他の部屋のちゃんこを褒めたというのは「ウチの部屋はろくな食材が出ない」というだけの意味だったように思う。
どんな部屋のちゃんこも不味くはないはずだ。
ちゃんこ鍋にしてもいつも鶏のつくねではつまらない。鶏のつくねなら筍が入っていれば嬉しい。
ブリや牛タン、なんだってちゃんこ鍋の材料になる。その素材の贅沢さを羨んだに過ぎない。
もちろん、ロクな食材が出ないと思えば「何クソ」と奮起することはあるだろうがw。
現役時代、「円買い」と言われた親方のおかみさんは層化とかで、タニマチからつけ届けしてくれたよいコメは層化関係に回してしまい、部屋の弟子たちには古米でロクなものを食わせなかったそうだ。
弟子たちはちょっと前に部屋のメシに不満だと脱走騒ぎを起こした。
よっぽどだったのかも知れない。
親方は「精神を病んだ」ということで療養していた。
質素でもいいがケチるのはいけない。食材が贅沢かどうかはまた別の話だ。
料理は美味いというところを探り当てようとすることだ。
それには健全な心が必要だ。それは心の問題だ。
ピンポイントで「これだ」という美味さを追求すればいい。不味くはない。
それは料理の楽しみでもある。
めいしくおしあがれ
