ゼレンスキー、三つ子の魂百までも
ゼレンスキーの我が国での議員会館での演説があったところ。
どうにも困ったものですwww。
聞くに堪えない大根役者ですな。
ゴロつき国家に振り回される偽善と欺瞞の先進国。それに乗っかる日本の国会。
みんなで渡ればウクライナ
何が太平洋戦争の教訓だか、笑ってしまいます。
何も変わってないではないか。
岸田にしても、安倍の「核の共同保有」の議論提起を言下に否定しておいて、こんな真相も分からない状況で一方の当事国の一方的な演説をさせる。
まさしく愚挙ですw。
まあ嘘がバレたら世界がひっくり返る、プーチンが失脚してもひっくり返る。どちらも困ります(笑)。
停戦合意と和平をすぐにでもしてもらいたいものです。
というかゼレンスキーの「日本のいっそうの支援」って何?
武器を購入するためのカネを寄越せ、ってか?www。
アタシは相変わらず疑問しかありません。不十分な情報で惑わされない。
ゼレンスキーは今もコメディアンでしかないと疑ってるw。
アタシはこういうの、「三つ子の魂百までも」なんて、ちょっと言っちゃう人ですw。
ゼレンスキーはこのまま安全な場所に潜伏して役割を踊り、アメリカも手は出さない。和平の仲介さえしない。
奇妙な道化回しが続いています。
まあ死んだってたいした数じゃない。
「大量破壊兵器はなかった」www
「三つ子の魂百までも」。
この言葉、「までも」と。
つまり、「も」で終わる。
「三つ子の魂百まで」とは言わない。
その言い方だと「百」で終わることになってしまいますw。
寿命の短い時代でも百歳以上の人生というのは念頭にありました。
いや、しかしこれ、「みつご」ですw。
「みつつご」ではありません。年齢のことです。
そーいやアタシも子供の頃に誤解していたのを思い出した振り返りのこと。
アタシはこの故事の「三つ子」とは、「双子」みたいないわゆるソーセージ(双生児)のこと、その同時に生まれた神秘、つながった魂、それは百歳まで残る、そんなふうに解釈していたことがあります。
間違いw。
ちなみにアタシが見たことがあるのは四つつ子のベビーカーまでw。
例えば「いつつご」と読みます。
五人、同時にお腹から生まれた兄弟姉妹ということです。
いや、ソーセージって言うのも誤解が多そうだけどw(笑)。
同じように三人の多胎出産児を読むなら、それは「みつつご」ということに基本はなるはずです。音便ってのはあるでしょうがw。
でもこの場合の読みは「みつご」と読んでいます。
つまり「三歳の子供」という意味に他なりません。
「双子のお子さんなんて大変でしょう」なんて聞いてみると、意外とそうでもないそうです。「進学したり結婚したり一辺に片付くから楽なのヨ」なんておっしゃるw。
多胎児にはそういう利点もあるようですw。
「三つ子の魂百までも」という言葉は、いわば人間の本質、その根深さを表した言葉です。
「いつまでもあの人は変わらない。子供の頃から変わってない」そんな意味でもある。
「業」とか、「性分」、人間の本質という含みが感じられます。
「三つ子」というのは三歳児ということです。
「三歳の頃の子供の性格は百歳になっても受け継がれている」ということ。
そんな表現なのです。
逆に言えば、三歳になるまではヒトは「人間」じゃない」ということなんでしょうか。
「胎児は人間じゃないから殺そう」となっちゃうのかw。
未だ竜電は十両の優勝争いにいる。先頭グループに残ってますw。
だいたい百歳と言えば仙人のようなものです。
「村の古老」どころか、悟りを拓いててもおかしくない年齢です。
しかしそんな空海みたいな、つまり弘法大師のような立場でも三歳の頃の業を背負い続けているということ。
それは損なことなのか、利点なのか。
アタシは暫くこれを誤解してたw。
だからきっとお受験に落ちたんだw(笑)。
アタシは要領のよくない受験生でしたw。
世の中は要領がいい人が得をすると言われます。
真正面から挑んで真っ向勝負は挫かれることが多い。
自分という人間としてはそれでいい。
分かっちゃいるけどやめられない。
しかし周りには面倒をかけますw。
卑怯者のそしり、その辱めを受けるくらいなら
腹掻っ捌いて死にましょう。
人はそれぞれですw。
変わらないのもまた良いことかも知れません。
損かも知れなくともどうにもならない。それもまた三歳(三つ子)の頃の人間形成が影響している。
それにしても、「三」という秘数はなんでこうももてはやされるのか。
歳なら「しち・ご・さん」というのもあります。どれも「素数」。
「三番サード、ナガシマ」なんて場内アナウンスだけで沸いたものです。あの人は背番号が違っていたら歴史に名は残らなかったかも知れない。
後に長嶋茂雄は同じ球場で永遠の不滅を宣言して、グラウンドから去ります。
その球場では王貞治が756号ホームランの記録、記録はその後も伸びていった。
またキャンティーズが解散コンサートをすることになったのが後楽園球場です。
3人のグループ。
あそこは昔はオープンスタンドでした。
今や時代は変わって東京ドーム球場の正面はシロウトもののAVの待ち合わせ場所にしょっちゅう使われています。
AV作品にもよく登場する場所。
「あれ?(笑)」「どうもぉw」なんて、出逢いの小芝居をやってる。
だから、そのすぐ脇に建つ東京ドーム・ホテルなんてもはや・・・(略)。
・・・いや、「素人モノ」ってのは萌えるんだ!w。
あ、いや、ゴホン。失礼w。
最近、アタシはふと、この三番という数字が気になった。
相撲の場所中だからか、二枚目とか三枚目なんて相撲のように聞こえた。
もしかして三枚目ってのは相撲が語源ではないか、前頭三枚目、ギリギリで上位と当たらないズッコケ者ってことかw、とアタシは思った。
調べてみるとどうも違うらしい。 まるで逆でしたw。
「二枚目」という言葉は歌舞伎の顔見世看板の順番から来た言葉だとか。
色男役が二番目の看板に名前を書かれ、三枚目はズッコケ役が当てられる。それにもちゃんと「道化方」という名前があるそうです。
知らなかったw。
一枚目はもちろん一枚看板、主役です。
どうやらこの番付制度というのは歌舞伎の世界から相撲に入ってきたものらしい。
相撲には江戸中期まで横綱という番付はなかった。
NHKの解説では「横綱制度ができたのは大正時代」という話です。
歌舞伎はこれに先駆けて、相撲と同様に番付に応じての役割があったというわけです。
テレビドラマでもそうでしょうが、「ああこの人がでてるんだから、このドラマはそんな感じだろう」そんな風に思うもの。そんな感じ。
番付にはそういう安定感の役割があります。
裏切っちゃイケませんw。
「二枚目」というのは色男役ということ。
いわゆるイケメン、伊達男の役どころです。
彼が波乱を呼んだりする。人情噺、事件のキッカケになったりする。
これを捌くのは一枚看板、千両役者w。
対して三枚目というのはドジっこ、情にほだされてしまう人。
「貧乏くじを引く」という役目周りです。
コミカルな立ち位置で、お話の中ではいささか損な役回り。
だから「道化方」ということになる。
でも三枚目は必ずしもブサメンとは限りません。
「ちょっとイケてない」、そのぐらいw。
「若大将」に対して「青大将」です。 ・・・古い喩えだなこれw(笑)。
二つが対照の役割で一枚看板を盛り立てるわけです。
将棋なら「飛車・角」の布陣でしょうか。
ならばと、そこから二枚目、三枚目を取り上げて「若大将シリーズ」というのをやった。
「一番星の桃次郎、対して、やもめのジョナサン」
「トミーとマツ」エトセトラw。
しかし「寅さん」は違いました。
三枚目の一枚看板というもの。
あの映画シリーズは秀逸だったと改めて思いますw。
でもこの話、どっちが得でどっちが損かという話になるとちょっと難しいとアタシは思う。
「二枚目だから得」という感じもあまりしない。カッコつけてミエばかり切るばかり。
まるでナルシストではないか(笑)。
そこいくと三枚目は真摯に行動し汗を流す。
損な役回りかも知れませんが実直でモテたりもする。泣かせるw。
観客が共感できる役回り。
ゼレンスキーはここを狙ってたように思えますが、今となってはどうかw。「抗戦のヒーロー」をやりだしたように思えますがw。
三枚目は「悲しきピエロ」、同情から恋愛に発展するようなこともよくあります。
そう言えば、「彼氏にするなら二枚目よりも三枚目の方がいい」なーんて、その昔、女子たちが話していたものです。
「旦那にするならどんなオトコがいいか」、リアルに女子というのはそんな話をしてるものです。男性はそれをあまりご存じない。
一方でオトコってのはあんまりそんな話はしないんだ(笑)。
「家庭的な女性がいいか、社交的な女性がいいか」なんて話はほとんどしない。
たいていは「巨乳派かスレンダー系がいいか」とか「面長かフックラな顔立ちか」なんて、外見、セックスのことばかりです。
っとに、、、オトコって馬鹿ねえ。www(笑)。
三枚目は情も厚いのです。
そこにほだされる女性なんて良いヒトかもしんないw。
だから三枚目の役回りは悪くないと思う。
それがアタシの魂なのかは自分では分からないけどw。
でも、魂の方は三歳の頃から同じかも知れませんが、歳とると薄くなるw(泣)。
抱っこされてる赤ん坊を見かけても、「ああこの子は禿げるな」って、なぜか分かるものです。
とても残念w。
おそまつ
