松尾芭蕉「奥の細道」と旅カラスの私
(嘘www)
・月日は百代の侠客にして行き交う人もまた旅人なり。
「月日は百代、継いできたヤクザ者、すれ違う人々もまた似たような人々である。」
「侠客」とは任侠に生きる者であり、一宿一飯の恩義で忠義するかりそめの客人。
渡世人。
ヤクザ者です。
その生き様は変転しており「旅ガラス」などとも言いますから、定住しない永遠の旅人とも言えましょう。
これは松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の書き出しで、諸方の奥方たちと松尾が色事を重ね、その秘められたる陰部について記した女性遍歴。
いわばヤクザ者の色事師の全国色事紀行文でしたw(嘘)。
ん?www
奥に手を入れると、そこはすっかり濡れそぼり五色沼、迎え入れるは・・・(略)
おっ!お゛ーーーーっっ!、ごっほっん、ごほっ、
ご、ごほごほん(笑)。 げほーーーん・・・ゴホン。
い、いや。ち、ちょっと冗談が過ぎたwww。
・月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。(正)
「日々は永遠の旅人であり、迎えては見送る一年もまた旅人である。」
百代とは、この芭蕉の時代が「人生50年」としても5千年、それは途方もない時間です。
今の現在では「人生百年時代」などと言われますから、それなら「万年」ということになりましょう。
キリストが生まれてからたかだか2千年あまり。並んでいる後継者、祖先の亡霊の列は40人に過ぎません。
期末のバーゲンセールに並んだり、かつてIPhoneの新機種に並んだ人たちは40人どころでは済まなかった。
まさに百代ともなれば「永遠なり」と言えましょう。
だから、新年を迎えたり古い一年を見送ること、そこに何かケジメがあるように思えても、それもまた旅人のように変転流転するわずかの一瞬なのです。
なーんてw。
これは松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の書き出しで、全国を旅して旧跡を訪ねながら俳句をモノにし、俳句のインスピレーションを求めながら旅した紀行記です。
「奥の細道」では俳句に語らせ、集めて紀行文とするなどということをしていますが現在でも斬新な発想に感じます。
ちょっと調べるだけでも「奥の細道」には聞いたことのある名句がいくつも散りばめられています。
「いろはかるた」というのもあります。
我が国はそうしたクリエイティビティが高い。
だから、ウクライナ政府発で流されるフェイクニュースにしても、もし我が国の文化テイストが入ってたらもう少しまともなものになったと思いますがwww(笑)。
まあ、我が国は「嘘をつく文化」ではありませんが。
この、「客」というものですが、「過客」、すなわち「過ぎ去る客」とし、それは一年という旅人と同じであるとするところは実に趣があります。
月日という、過ぎ去ってゆく毎日を「客」と定義づけ、そして同時に行き交う年について、つまり一年をさえ「旅人なり」と看破するのです。
芭蕉はこの旅に約半年を費やしています。
もちろん芭蕉はこの旅で東北から北陸を旅し、客であり続けたわけです。
道中で色んな人の厄介になり、世話を受け、旅を続けた芭蕉自身がまさに「お客」でした。
旅をする芭蕉自身がうつろう時の流れに身を任せていた、そんな心情が窺えるところです。
「客」、この言葉にはやがて去ってゆくという含意があります。
「おめえさん、いつ、ここを出て行きなさるんかい?」
なーんて、世話をした地元の親分が話しかけるものです。清水の次郎長とかw。
もう出て行けというかのようだ、なんて今なら思ってしまうかも知れませんが、「このお方は執着や腐れ縁、しがらみのない自由なお方だ」、そんな敬意が込められている古来の言い方なのだとアタシは思います。
アタシも共感せざるを得ない。
まあ、アタシは去ってゆく側の人間ではありますがw(笑)。
人は去りもし、死んでゆく、いつかは別れがあるものです。
それはものの憐れでもありますし、誰かに迎えられ去ってゆく客の立場は誰しも同じ。
去り行く覚悟を秘め、アタシたちの人類の旅は永遠であるかのように続きます。
客人は厄介になっているということで家の手伝いを始めたりする。ケンカの加勢をしたりします。
なかなかの働き者だなんて思ってたらいつまでもいて、とうとう居ついてしまうこともある。
そんな場合もあります。
そうなるともう「客」ではありませんww。
挙句にはその家の娘とねんごろになったり、くっついたりする。
その場合は「旅がらす」なんて言われない。
「流れ者」と言ったものです。
今はすっかり居ついてはいますが、いつかどっかへまた飛び出してしまうんじゃないか。不安はつきまといます。
なにしろ居つくようになったところまではふとした旅人、客に過ぎなかったのです。
だからどっか信用がおけないところがある。
出自不明であればそうなるのも無理はなく、そんな視線を意識しながら彼らは黙って受け止めて生きてゆくしかない。
アタシの祖父がそうした人でした。
父とは血がつながっていない継父に当たります。
つまりアタシにとっても血のつながってない義祖父ということになります。
それでも子供の時分は祖父としてアタシはクチをきいていた。
祖母は早くに夫をなくし、祖父は父がまだ幼少の頃にふらりとやってきて同居するようになり家業を手伝うようになったといいます。
そうして祖母は結婚して子を一人授かりました。
随分と年の離れた年下の旦那でした。
父の弟、叔父も祖母の前の夫との間にできた子供でしたが、アタシが祖父とは血縁関係がないことを知って祖父はどういう人か尋ねると、よく知らない人物だと言ったものです。
「あ゛? あれは流れ者らしいけどな。」
なんて。
出身も出自も、それ以前にはどんな暮らしをしてきたは知らないのだ、と。
その祖父は、アタシはこの祖母の家に連れられると親に隠れてはよく小遣いをくれたものです。
彼がアタシを可愛がってくれようとしていたのはよく分かった。
しかし叔父の「流れ者」という言葉にアタシは警戒感があった。
アタシを連れ回すのもどこか言い訳じみていて、アタシを利用しようとする感じさえした。
あまり懐いたりはしなかったものです。
多くを話さない人でもありました。
口数の少ない人でした。
彼がどんな人生を経て祖母の元に辿り着いたのかは分かりません。
そのうち両親が亡くなり、アタシは家を出て彼らとは関わりがなくなってゆきます。
いつの間にか祖母が死に、その祖父の死に目にも遭うことはありませんでした。
祖母の死後、遺産分与でたいそうモメたという話は叔父から聞いたことがあります。
それはずっと後になってからの話。
気まぐれにアタシが叔父と会うようになってからのお話です。
祖父はアタシに会いたいと言っていたとか。
しかしその頃はアタシは日本にいなかったw。
墓参りもすることはありません。
どうやって周囲から得体の知れないとされる人物が入る墓を見つけたのか、あまり考えたくもない話ではあります。
今はアタシはもっと古い遠い真正の祖先の墓参りをしています。
このアタシもしがらみを持たずに生きてきて、家内しかおりません。
百代の過客、アタシは子供を作ってないから代はない。
「旅人」でしかありません。
人のあいだを行き過ぎるだけの旅人です。
ちょっと前、ピロリ菌の除菌をしてから花粉症の症状が変化し、アタシはクシャミよりも痰に悩まされるようになりました。
花粉の季節は胃がムカつくようになり、どうしても唾を吐かずにはおれません。
家内と茶を飲んでいたりしていると突然、グッと喉にこみ上げる。
粘土のような痰の塊が喉にまとわりつくのを感じる。
アタシは椀か何か、空いたものにカァッと痰を吐いてしまいます。
最初は「嫌ぁねぇwww。」なんて非難の視線を向けていた家内でしたが、今はすっかり慣れてしまったのか何も言わない(笑)。
椀に痰が溜まりすぎると、唾の臭いがしてきて臭えんだw(笑)。
でもティッシュに包んではエコでもないし、ゴミ箱がまた臭う。椀はちょうどよいのです。
このことで気付きがあったのは、ずっと後になってからのことでした。
アタシが祖母のところに連れて行かれ挨拶をさせられた時のこと。
そこで祖母もよく同じように痰を吐いていたのを思いだしたのです。
着物を着て、まるで腰から下、根っこでも生えてしまったように帳場に座りっぱなしの祖母は立ち上がることなく色んなことをした。
茶を淹れ、灰皿を片付け、ソロバンを弾いた。
食器を後ろのシンクに片付けた。
片付けられた食器は祖父が行って洗っていた。
そして祖母は痰を椀に吐いていた。
アタシと同じ。そう気がついた。
アタシも祖母も、痰が吐きたくなってもわざわざ洗面所には行かない。
祖母も手頃な椀に吐き捨てていた。
アタシは子供の頃にそれを見て、汚ねえ婆あなんて思い、見るのが嫌だったものです。
シワクチャの顔をした祖母は動くのも億劫そうに痰を吐いていた。
その祖母の方はアタシを助けたいと思ってくれてたようでしたが。
アタシで終わる代としてもアタシまでは続いていたのです。
おそまつ
