ヒメシャラに始末をつけた庭の想い出
振り返りのこと。 この家に引っ越してきてまず考えたことです。
それは庭木に新しい木を植え、派手な庭にしようということだった。
庭がハッタリになるといい、来客があれば庭を見せて待たせることもできる。
私自身、もっと若い頃にはそんな庭木の立派な屋敷に威圧されたものだ。
尋ねて行くといつもこちらの身の小ささを思い知らされた。
ウチはたいした庭ではないが、せめて人に胸が張れるような枝ぶりの木があればいい。
そう思っていた私はまだ人との付き合いが頻繁にあった頃だ。
最近は訪問客はいない。
ブログへの訪問を嬉しく感じてしまう。
モダンな木はないものか、私は植木市があると聞くと出かけていって色々と植えられそうな木を見て回った。
庭にはシンボルツリーがあるといい、そんな話も聞いたものだ。
たった一本の木でもその家だと分かるなんて素敵なことだと私は思った。
誰かに「角を曲がるとXXXの木が見えるのがウチの目印だよ」、そんなことが人に言えるなんて素敵だと思った。
すでに植えられていた木はどれもそれなりに立派ではあったが、どうにも古臭く思えた。
前の亡くなったオーナーは戦中の生まれだったし、家は築50年を超える。庭木のセンスは古いものだったろう。
家内も「これは昭和の庭木だね。」なんて言う。
そう言われれば、私も庭には現代風の庭木が欲しいと思った。
最近の庭木はオリーブを植えたりミモザなんてのをシンボルツリーにしている家もある。
庭木のサルスベリが枯れかけていて、まだ植えるスペースはあった。
植木市には足繁く通い、植木屋とも顔見知りにもなった。
植木市では人々はみな小さな苗なんかを買って帰ってゆく。
大きな見栄えのする木を、と、そんな探しモノをしてたのは私ぐらいだったかも知れない。
こういう間違った思い込みは後になって今更ながらに思い知る。
庭木なんて成長は早いものだ。
だから苗の時から育てて大きくなるのを楽しみにした方がよっぽどよい。
年齢を重ねれば分かることなのだが若い時分には分からなかったことだ。
実際、売りに出された古家が整地され庭木がすっかり伐採されてしまうのを見ると、私は昔から恨めしく思った。
生きている木を切るなんてとんでもない。私はそう思った。
しかし、よほどのよい庭木でもなければそういうものかも知れない。 今ではそう思う。
そうして一度はすっかり片付けてしまい、また新しく庭を育てるというのも悪くないのかも知れないと思う。
そうしてまた新しい世代が生き、新たな時代が紡がれる。
もちろん、私はと言えば性分という奴で、生きている木を切り倒すということはしたくはないが。
そうして翌年、「ヒメシャラ」の株立ちが植木市に持ち込まれているのをみつけた。
私は目を見張ったものだ。
下の根がコブのようになってそこから何本かの幹が分かれて高く伸びている。
大きなヒメシャラだった。
すこし我が家には背が高過ぎる気がしたが何よりその姿が気に入った。
株立ちの風情が林のようで、幹肌の赤茶けたモダンな感じと相俟ってとても美しく感じた。
木が樹形を自然に整えているようで、ひとりで美しい佇まいを造作している。
葉っぱはついていたが花はどんなものか知らなかった。
私は何よりその幹、ヒメシャラの樹形が気に入ったのだった。
とうとう、私はこれを買うことにした。
木についてはよく調べもせず、すぐにその場で運び賃を交渉して格安で手に入れたものだ。
後日、植木屋がトラックで運んできてくれ、サルスベリを抜いてクレーンで庭にしっかりと植えられた。
サルは弱っていたのか、アリが列を作ってぞろぞろと枝をよく這っていたのを見た。
ヒメシャラの根を包んで丸めていたワラはそのまま、土の下で腐るからそのままでいいのだと植木屋は言い、私は庭の正面に収まるのを見守った。
植木市では根が始末をつけられてワラで巻かれている。土もかたまりごとついている。
もちろん植木市ではそのまま置かれるわけで、だから背は大きく見える。
実際に庭に植えてみればそんなに背の高いものではなかった。
私は今更ながらひと安心したものだ。
眺めるとそこが木立に見えた。すがすがしい高原のような雰囲気があった。
私には楽しい庭木のひとつになった。
元気だったのは数年ぐらいだったろうか。
樹形はそのままにどんどん衰えていくようだった。
気がついたときには葉があまりつかなくなり、そのうち押し黙ってしまった。
雪が降っても積もった雪はなかなか溶けず、ヒメシャラは冬眠したように静かだった。
調べればやや南の方の木で、寒さには弱いのだと知った。
それに我が家は風通しもよくはなかった。
隣にはカイヅカイブキが並びサザンカもあった。
どうやら枯れてしまったようだ、そう気づいたのは暫く経ってからだった。
ヒメシャラは堂々と立ったまま覚悟したように往生していた。
死んだといっても、それは私の好きな庭木の姿のままだ。
枯れても美しい木立を見せていたから暫くはそうっとしておこうと思った。
枯れても庭の立派なアクセントになった。
風が吹けば枝は揺れ、まるで生きているように木立がさざめいた。
しかし、ある日、黒いキノコが取り付いているのを見つけた。
そのうち小さなキノコは幹に目立って生えはじめ、ウロコのようにどんどん増えていった。
枯れた木にキノコがびっしりと取り付かれている姿は哀れなほどになった。
骸に別な生き物が寄生されている。その姿は私に最後の介錯を求めていた。
私はヒメシャラを処分することにした。
ノコギリで切ろうと幹に手をかけたとたん、幹はなんなく折れてしまった。
手でパキパキと折れてしまう。
もはや空虚に魂さえなくし、とうに枯れ木でさえなかったのだった。
私は少し涙が出そうになった。
これまで、最後の始末をつけてやらなかった自分の残酷さに後悔した。
枯れて死んでしまったのだから早く切って処分してやればよかったのだ。
憎々しげに幹に取り付いていたキノコを私は見た。
結局どこも固い部分はなく、さほどチカラをかけなくともヒメシャラは全ての幹が折れてしまった。
またその空間は寂しくなった。
家内がそこにギンバイカを移動させたのはいつだったか。
家内が植木市で苗から買った小さなものだった。まだ赤ん坊のような苗だった。
ギンバイカは日当たりのよい場所を得ると、みるみるうちに成長していった。
数年でシャラほどの大きさになってよく繁り元気な姿を見せた。
「こうして庭は育つのよ」
家内は私に成果を誇った。
ハッタリだけでは弱い、そんな教訓だったかも知れない。
それからまた十数年経ち、私は今年はと、今までにない大掛かりな剪定をした。
私も年齢を重ね去年は膝を痛めてしまった。
細かな剪定をして世話してやるには庭木は大き過ぎるような気がした。
庭が育ち成熟し、今度は小さくなってゆくのかも知れない。
人間も歳をとると小さくなってゆく。
今、キンモクセイを大きく切った丸太が庭の真ん中に転がっていて、朝はそれを眺める。
強剪定の名残りであまりに立派な丸太だからひとつだけ転がしている。
終わった時代の遺物だと人は見るかも知れない。
私はと言えばあまりそうも思えない。
クロコダイルに似ているような気もしないでもない。
キンモクセイの幹はよく似てる。
凶暴なワニが庭にいて、獲物を待っているように私には見えてしまう。
まだ私も闘かう心がある。大丈夫だ。
おそまつ
※ 以前、コメントいただいたのですが、字が読みやすい時とそうでない時があるようです。
昨日のお話はちょっとゴチャついてしまったかも知れません。
ネットでは改行は嫌われるものですが、できるだけ読みやすく、広告を挟んだりして一服してもらえればと、工夫はしております。
あしからず。
クロコダイル。なら「クロコダイル・ロック」とかw。
エルトンの曲。
「クロコダイルとアリゲーターは違う」なんて話があります。
服のブランドと人喰いワニwww。
ワニですw。歯の噛み合わせが違うのです。
クロコダイルは口を閉じると歯が見える。
噛み合わせはクリップのように上下が交互にしっかり。
人間の歯医者で言う切端咬合(せったんこうごう)に近い。
アリゲーターは上から下へ歯が閉じる。つまり出っ歯です。歯を見せない。
「タートルとトータス」ってのもあります。
ミュータントヒーローと松本www。
亀ですw。
水の亀に対して陸亀。
「グリズリーとベア」なんてのも。
どちらも人を喰う。人肉を喰うのと人のカネを食っちまう下げ相場w。
熊ですw。
茶色い熊と黒い熊。
いろいろ似て非なるものがある
