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ハンコ文化が問う契約社会の非情


コメントいただきありがとうございます。
 「ハンコの話」、これをもう少し深耕したくなりました。

 これは「契約社会」への覚悟を私たちにつきつける議論となるからです。
 「無駄のようでも無駄ではない」とか、「効率ばかりを追求すれば野暮である」という話だけでもありません。

 ハンコは、我が国で行われてきた阿吽の呼吸、共同体での合意、私たちが共有している社会正義とか社会規範というもの、こうしたものが機能している証なのです。


 我が国は徳川幕府の締結した日米不平等条約に長いこと悩まされてきました。
 それから現在まで、契約というものは双方が納得し対等でなければならない、それが私たちが肝に銘じてきたことです。

 我が国では「ハンコ」というのは、「公正な契約を当然の前提とするココロ」その具象でもあります。




 「ハンコ文化はなくせ」という議論が最近よく聞かれるようになりました。
 ハンコへの疑問です。

 今はパスワードや各種の認証方法が発達しており、現代の世の中では効率が悪いだけ、ハンコは名目的な遺物に過ぎないのではないのか、無駄なものではないかという議論です。

 意思決定の遅さ、ハンコ手続きと言う手間のコスト、私たちの社会はハンコを捨てるべきではないかという議論です。


 ハンコはある程度は複製が可能でもあり、絶対でもない。科学的にもそうそう唯一無二の認証方法と信頼することもできない、生体認証の方がよっぽど確実だ。
 そんなことも言われます。

 どうか。
 果たして私たちはそれほどハンコに依存しているのでしょうか。

 ハンコは盗用されやすく、それなら事件も多かったはずです。
 その場合、パスワードの盗用と同じように取り返しがつかないでしょうか。
 無法な契約書にハンコを押してしまい取り返しがつかなくなってしまったでしょうか。

 あまりそうしたことは多くありません。



 ハンコはこれまで、契約や承認、同意について「自発的な意思があった」ということを裏付けてきました。
 当人が自分用のハンコをわざわざ作らせたという事実が重要です。
 その印影を照合する側もそうで、印影を「確認」するということはそこに自発的な意思があるともできます。
 双方が契約について自発的に合意しているということです。

 しかしそれだけ。
 契約の内容自体は社会規範によって正当性が担保されてきたからです。


 よく、「ハンコの外周が欠けていたら使い物にならない」ということが言われます。
 
 これは印影を照合する時に問題が起きるからです。
 印影が不鮮明だとして書類を送り返された経験は誰にもあるかも知れません。

 それでひいては、ハンコのヘリが欠けていることも問題だと言われます。
 果たして押印が不完全なのか、もともとの印影が欠けているのか、判別しにくいからです。


 これによって「ハンコのヘリが欠けたものを使ったら契約は有効ではない」などという話さえ生まれました。
 しかしこれは都市伝説というもの(笑)。

 その昔はこの都市伝説を逆用し、わざわざヘリの欠けたハンコを使う人もいました。

 アタシもそんな一人ですw(笑)。

 これは万引きやイタズラが咎められても正体がバレないように、なんて、頬を膨らませて写真に写ろうとするのと同じ次元のことですw。
 意思があって押したのです。実際には抜け道にもマヤカシにも何もなりません(笑)。



 伊達政宗はその昔、秀吉から一揆を扇動した書状を証拠として突きつけられたことがあります。
 その謀反の証拠とされた書状には伊達の印影がありました。

 実際、伊達政宗はこの書状で一揆を焚きつけ、隣の領土を略取しようとしていました。
 
 しかしこの時、伊達はいつも書状の印に穴を開けていたのですが、それがないとして「これはニセモノである」と断言します。
 そうして秀吉からの追求を切り抜けたという話があります。

 歴史に詳しい方ならアタシよりもっとご存知でしょう。有名な逸話だと思います。

 このお話、伊達政宗は最初から書状が漏れてしまう可能性を考えて仕掛けをしていたと言われています。
 最初からニセモノと言えるよう伊達は自分の印をいつものようにはしなかったのだと言われています。


 しかしこの書状も一種の契約書には違いありません。
 そう考えると、これは何も伊達がニセモノとした嘘を秀吉が見抜けなかったのではないとアタシは思うのです。

 伊達は印影に穴がないことで正当性がないことを秀吉に示しました。
 つまりそれは契約の齟齬、不完全な意思でしかなかった。それが理解されたから伊達は秀吉から赦されたのだとアタシは思うのです。

 つまり一揆を扇動したのは秀吉の領土への侵害を意図したのではなかった、それを示せたから赦されたということです。

 印影が欠けていたから契約が無効なのではなく、わざわざ欠けた印鑑を使ったことで契約そのものに疑義があったことを伊達は残したのです。
 これにより書状が吟味され、秀吉への謀反ではなかったことが認められたのだとアタシは思うのです。



 「ハンコを押す」という行為は契約しようという自由意志の結果です。
 それは契約が公正、正当であることを前提としたものです。
 ここまでの事実を構成するものがハンコです。

 その形式が整っていること、所定の場所にハンコが押されたという、一見して「無駄」に見えることが手順の正当性を裏づけています。
 

 一方でこんな前近代的な遺物であるハンコをなくしても問題はない、代わりに同意や契約がきちんとしていればいいという話があります。
 これを「ハンコ社会」に対して「契約社会」と言うことが出来るでしょう。
 サインや照会ナンバーで契約が締結できるとする考え方です。

 この時、契約内容の正当性や公正さは関係ありません。
 自発的な合意であれば契約は成立します。


 もしハンコをなくすというなら、こんな「契約社会」となることは当然に覚悟しなくてはなりません。
 各自が責任を持って契約や承認、同意を行うということです。
 誰も助けてはくれない。
 自己責任が徹底された社会です。

 その際、社会の規範や社会正義というものは私たちの権利を守りません。
 すべてが自己責任なのです。

 契約をする場合には慎重に、常に弁護士などの代理人の同席が必要となるでしょう。



 効率がよく、とても合理的に見える欧米風の「契約社会」ですが、しかしそれは非情なものです。
 契約が社会正義や規範に優先します。

 契約が公正で対等であるべきという前提もありません。
 契約書が読みにくいものだったり明白な記載がなかったり、トリックが隠されていたとしてもサインされてしまえば有効です。
 契約が自由意志で交わされたものであれば拘束を受けます。

 一方的に相手が不利になるような不当な契約であったとしても、契約が交わされてしまえば有効なのです。
 我が国は日米不平等条約の歴史でこれを骨身に滲みて理解しているはずです。


 これに対し「ハンコ社会」の場合には、最初から契約そのものに議論の余地があったということができます。後になって不当な契約としてこれを覆せる場合もあります。

 サラ金の「過払い金訴訟」などはまさにそうです。
 あれは過去に遡って契約を覆しているのです。

 ハンコは公正な契約への同意でしかありません。どんなに自発的な合意であっても契約の質が問われるのがハンコ社会です。
 社会規範によって個々人の権利が守られているのです。


 なぜなら、ハンコなんて誰にでも押せるものですし、偽造も複製も不可能ではない。
 どんな状況で押されたか、本人によって押印されたのか、証言や事実によって検証されねばなりません。ハンコはそれほど唯一無二性はないのですから。

 ハンコを押したとしても一方的に不利な条件を丸飲みすることにはなりません。
 ハンコ社会では議論の余地がまだ残されています。



 しかしサイン社会、契約社会ならそれは許されません。
 どんなにズルい条項があっても、どんな不利な条件でも不当契約でも、同意したならば契約は有効です。
 よほどのペテンでなければ後から契約を覆すことは難しいものです。


 だから、欧米では重要な契約には必ずその内容を吟味するために弁護士など代理人に立ち会ってもらい助言を求めます。
 それは社会にとっては弁護士を頼むという余計なコストですが、契約自体はサインひとつです。

 サインをしてからの揉め事はありません。
 許されないのです。
 だから一見すると効率的に見えます。

 しかしこれはかかるコストを外に出したというだけに過ぎません。
 生産性があるように見えているに過ぎないのです。


 つまり、一連の手続きからハンコをなくすだけでは意味がないということです。
 責任が必ず生じ、契約に従う社会。
 契約社会への覚悟が必要ということです。



 ただ、今のところ我が国も契約社会に向かってゆっくり移行しているとは言えるかも知れません。
 今は色んな手続きがネットでされるようになっていますし、様々な手続きで省略が許されるようになってきました。

 契約内容でトラブルが生じても、よほどでなければ裁判所も契約の中身について突っ込んだ判断はしてくれないでしょう。


 つまり言い換えれば、我が国で積み重ねられてきた社会規範や社会正義への信頼は薄れつつあるということです。


 嘘がまかり通ったり、言い張りが通る、そんなことも多くなってきました。

 支配的な地位を利用した相手への不当な要求、これは公取委の監督する仕事ですが、彼らもあまり働きません。
 トヨタの下請けへの理不尽な要求や契約について彼らは取り沙汰しません。
 ブロガーならグーグルの広告に関した一方的な規約が分かりやすいでしょう。

 公取委はそこまで公正さを追求してくれません。これ以上の負担を避けたいというのもあるのでしょうがw。

 なにより効率優先がまず第一ということ。
 それが現在の我々社会の目標なのです。



 ではこの際ですから、どうでしょうかw(笑)。
 弁護士も数が余っていて生活苦にあえいでいるようですしw、ここはもっと弁護士を活用したらよいのではないか。

 共同体におけるお互いの信頼や規範、社会正義よりもまずは契約です。
 契約にインチキがないよう弁護士を活用すればいい。
 不当な契約があったら削除するよう訴えればいいのではないか。


 しかしそれなら、もし弁護士が契約の不公正な点を見落としてしまったら?
 弁護士が結託して契約者を騙そうとしたら?

 結局、それは彼らの責任ということになります。
 彼らに医療過誤訴訟のように責任を求め、弁護士を訴えることになるでしょう。


 「医療過誤」というのは医師の診療ミスということです。

 よくニュースになることですが、これは医師が最善を尽くしたかが問われる裁判です。
 不幸な結果が、医師の不可抗力だったか否かが争われるケースです。

 よく、事前に医師は「手術同意書」にサインさせるものです。
 あれで病院は患者に一切の異議申し立てを放棄させたつもりですが、その契約の有効性が争われることはありません。
 そこはまだハンコ文化の残る部分ですw。

 そこで医師は言います。
 「こんなことで責任を問われるのでは小児科などなり手がいなくなってしまう」と。


   

 今、企業の外部会計監査でも同じようなことが起きています。
 企業会計の正当性を確認する人たちの責任が問われるようになっています。

 不正会計を見抜けなかった会計事務所が、株主から責任を問われるケースが起きているのです。

 そこで彼らはこうコボします。
 「これっぽっちの報酬でそこまで責任を問われるならもうやってられない」と。

 今、外部会計監査では人が不足していると言われます。
 会計事務所はひっぱりだこですw。


 私たちは社会の公正さをどう担保したらよいのでしょうか。
 公正さを前提とした社会を維持しつつ、どうやって効率的な社会を追求したらよいのでしょう。

 ハンコを止めてそれだけで済むでしょうか。
 弁護士に契約をチェックさせ、自己責任でサインをすれば済むでしょうか。

 それほど簡単なことではないような気がします。


オチはありませんがww、

おそまつ (印)



※ 「ハンコ文化はなくせ」という議論は、よく無責任な連中がよく取り沙汰する話。

 効率の悪いことしかしてこなかった連中が、「ハンコは無駄だ」とやり、さも自分には能力があると偽装する方法。
 スリ替えです。

 このところ世の中の言論というものがどうもおかしい。

 コロナのことを書けばカネになる?

 誰がそんなカネを出してくれるんでしょう(笑)。
 ったく、羨ましい限りですwww。

 「反ワクチンでデマをブログに書いて稼いでいるのがいる」

 なんて、どこのブログの話だ!

 それこそデマでしょう!!

 いったい、ブログの広告がいくらになると思ってんだ!www


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