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片口の器は便利でも、野暮というもの


寒い冬です。やはり鍋がいい。
 体が温まり、食卓にぬくもりがある。
 二人でつつけば楽しいものです。

 でもあまり鍋の中ばかり見ていると家内の顔を忘れてしまう。
 「美味しいね」って言う時、鍋を覗きながらでは不精というもの。
 心が伝わらない。

 ちゃんと相手の顔を見てあげましょう(笑)。
 「うん、美味しいね」って、ニッコリして返してくれるw。


 鍋が終わると、アタシは翌日の味噌汁にするためダシが出た鍋の残り汁を土鍋から移します。
 こういうことをするから、汚らしく感じないよう鍋はキレイにいただきます。

 さてここでいつも思うのですが、汁がこぼれそうで心配。

なぜ片口になさらないのか!




 土鍋でも鉄鍋でも片口にしたらいいのではないか。
 茹で汁を移したり捨てたり、便利なのではないか。
 いつも思うことです。

 特にアタシなどはガサツ者ですから、それこそなんでも片口がいいぐらい。

 片口というのは器の一辺に注ぎ口があるものです。

 ヘリが少しへっこんでいて汁などがスムースに注げる。


 これが便利で重宝します。

 豆腐をレンチンして即席の湯豆腐にしようとします。すると水が出る。
 片口でやればその水は簡単に捨てられます。

 水分が出てくれるので豆腐が締まる。安い豆腐も美味しくなります。


   

 納豆もこれを使うと便利です。

 納豆はネバネバで糸を引いています。
 ご飯の上に盛ると器の周囲がまたネバネバとしてきます。

 これにスプーンや箸がかかると困る。
 それを手で掴んだりしたら手がネバネバ。嫌w。
 でも普通の鉢では箸やスプーンが回ってネバネバがついてしまいます。


 片口の器だとその注ぎ口が低くなっています。
 だからそこに箸やスプーンを落としこんでおけばいい。
 スプーンがぐるりと器を回って納豆のネバネバがつくということはありません。

 片口になっているところ以外の周辺から納豆を移せばいい。



 片口って便利なものだと思うのですが、なぜか南部鉄で片口というのはあまり聞きません。

 理由はあるんでしょうか。
 鉄だってできないことはないでしょうにw。
 「ちろり」なんて金属ですがちゃんと片口になっています。

 「ちろり」は上が開放されているものが多い。徳利とは違います。
 だからあまり燗するとアルコールが飛んでしまう。酒はまろやかになりますが、ノンベイには不向き。


 スキヤキ鍋は浅いものです。
 残り汁も使いません。だから片口である必要はない。

 しかし水炊きやしゃぶしゃぶの鍋は深い。お湯を沢山使います。
 キレイに食べられれば残した汁は使います。
 捨てるにしてもお湯が多い。
 片口になっているといいと思いますが、よくないのでしょうか。

 


 器としての片口はあまり使われるものではありません。
 膳のワンポイントとしてひとつ使うぐらい。
 デザインを面白く感じてひとつ小鉢代わりに使う。

 片口がおおっぴらに使われることはない気がします。
 こには理由がありそうです。


 推察すれば、お作法的には片口は水屋なんかに置いとく裏方的な器です。
 だから実用的。お湯や水を注ぐための道具です。
 実用的なものには作法は要りません。

 我々の所作を器や道具が決めてしまうことになります。
 道具というのは使いやすいように出来ている。握れば使い方がすぐ分かるものです。
 ただ、そこには「心」がありません。「趣」は忘れられています。

 だから、ちゃんとした場、表の場ではあまり片口は使われないのではないか。
 むしろ片口を膳に出すのは逆に一種の「洒落」ではないか。
 裏方の道具を表に出して使ってみて楽しむという趣向です。



 便利に流されるのを嫌うのが日本人です。
 わざわざ回り道をし、手間をかけることが多い。

 片口の器ばかり使うのは野暮と言うものでしょう。
 そんなに汁をこぼしてしまうほど所作が悪いのか、と。
 だから「片口の鍋」はよろしくないのかも知れません。


 でも、こういうことはよく言われる「生産性」とは関係ありません。

 長年、我が国のホワイトカラーは先進国でも最低レベルの生産性と言われてきました。
 余計な仕事、無駄な仕事が多いという話。

 しかし「余計な手続き」だとして省いてしまったら、とたんに使い込みやら流用など内部不正が行われるようになってしまったなんてこともあります。

 見えないけれどちゃんと機能している「無駄」だったというわけです。


 「稟議」にしても意思決定が遅い原因だなんて言われますが、それなら執行役員会がちゃんとしてなくてはいけません。責任の所在が明確でないといけません。
 しかし、自分が間違ったということを認める取締役はほとんどいないはずです。



 また、「ハンコ文化をなくせ」という議論を最近よく聞くようになりました。
 しかしハンコは「自発的な意思の表明」ということを裏付けてきました。
 当人が自分用のハンコをわざわざ作らせたという事実が重要です。

 形式が整っていること、所定の場所にハンコが押されているという「無駄」が手順の正当性を裏づけてきたのです。
 
 ハンコをなくしても、代わりに同意や契約がきちんとしていればいいという話。
 しかしそれが読みにくいものだったり明白な記載がなかったり、それどころか一方的に相手が不利になるような不当なものであったらどうか。
 最初から契約そのものが議論の余地アリということになります。

 ハンコは公正な契約への同意でしかなく、押したからっておかしな条件を丸飲みしたわけではありません。ハンコ文化ではその議論の余地が残されています。


 しかしサイン文化ならそれは許されない。
 どんなにズルく不利な条件、不当契約でも同意したことになります。
 だから欧米では契約には必ずその内容を吟味するため弁護士などの代理人が立ち会ったりします。
 それは余計なコストであり、無駄を外に出したというだけです。
 見かけだけ生産性を上げているに過ぎません。

 ただ一連の手続きからハンコをなくすだけでは意味がないのです。


   


 無駄に見えるものを失くすというなら、その影響を考えて代わりの手順を作らねばいけません。
 無駄に見えても機能していることはたくさんあります。
 最近は「無駄をなくす」と言いつつ、柱をなくしてしまうような「手抜き」になってしまうような議論が多過ぎる。
 「心」を忘れてしまわないようしたいものです。


 レンホーの「二番じゃだめなんですか」なんて、ただのヒステリーでした。いいがかりです。
 誰も二番を狙って二番になるんじゃない。「結果」としての二番に過ぎません。
 「二番でいい」なんて最初から言ってたらどんどん順位は下がってすべてが無駄になってしまいます。

 なんのための「仕分け」だったのか。政策の検証ではなかったのか。
 しかし持続的な検証制度など作られませんでした。「仕分け」の法律も作られなかった。
 あれは単なるパフォーマンスに過ぎませんでした。


 無駄をアピールするだけで代替策を考えてない。

 それでは片口、いや「片手落ち」というものですw。


おそまつ



※ 「汁を移す時にこぼしそうで不安だ」。

 それだけのことです。

 その不安が「無駄な心配」であり、片口の鍋ならそんな心配などしなくていいのに、と思った。

 でもそういうことを解消してしまうと趣がなくなります。

 鍋は鍋らしくいただきたい。

 そんなココロ。

 「コストカッター」なんて自称してるのに限って無駄メシを食っている。
 単なる思い付き、パフォーマンスだけで言っていることが多い。

 どうしちゃったのか、この国は。
 そんな憂国の士がひとり亡くなったのですが、石原慎太郎には誰もついていかなかった。


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