蕎麦猪口(そばちょこ)考
そもそも自分がおめでてえぐらいの蕎麦食いなもんだから、いつからか蕎麦猪口とか蕎麦徳利とか色々と揃うようになった。
湯斗で蕎麦湯を飲みたいもんだからそれも揃えた。四角くて、対角線の両端に取ってと注ぎ口というあの斬新なスタイルの湯斗。あれはいいがなにせ本物があまりない。あの赤漆の蕎麦湯入れがホントは欲しかった。だがすこし懲りすぎだ。
湯斗は茶道の湯斗にした。黒漆のシンプルなもの。
蕎麦湯が美味しい時ってのはあるもんだから。
それに四角い蕎麦せいろまではさすがに持てない。
だいたい昔ならいざしらず、今はああいうものでいいのは手に入らない。たいていはプラだったり、適当な造作だったりする。それに商売で使われるのがほとんどだから中古だと痛んでしまっている、だからせいぜいザルだ。
野菜の水切りにも買ったキノコを乾燥させて日保ちさせるにも使える。使い出がいいのがいい。
それに、店で食うことを考えるならザルの方が盛りのせいろより高いのが普通だ。贅沢なんだからと、よしとした。
あの四角い盛り蕎麦のセイロは江戸時代に考え出された「蕎麦せいろ」というもの。わざわざ作らせてヒットした。そのときからの流行りだそうで、さすが粋な江戸の町人文化だと思う。
ともかく蕎麦はきっちりと洗い、それをザルに広げていただくが、その時、蕎麦猪口は種類があるといい。それこそ古伊万里なんかでも大正、明治、そんなのでも安く買えるいい時代。
使ってあげれば骨董でもきっと器は喜ぶ。
で、その蕎麦猪口、チョコっと考えると違うんじゃないかということがある。(笑)
よく見かける蕎麦猪口よりも一回りサイズが小さいのが正しいんじゃないかということ。
食べにくいというか味わい方が違うような、なんか違和感がある。
そりゃ天ザルとかだと感じない。まだいいんだそれは。他にトロロ入れて食べたり大根おろしやナメコ汁につけて食べるとか、色々やるってならその普通サイズの蕎麦猪口でいい。気にならない。
しかしね、シンプルな盛り蕎麦、ほんらいの昔からの「盛り蕎麦」をやるってなら蕎麦猪口はもう少し小さいものがいいんではないかと思う。そっちが正しいんではないかと思うのだ。
自分で食べる時、その手元をよく注意してみるとわかるが、いつもの湯呑み茶碗サイズの蕎麦猪口だと箸でとった先だけを蕎麦ツユにしたして食うったって、そのチョンができない。どうしたって一度どっぷりとつかってしまう。
要するにさっとメンツユにつけて食べるって感じにならないんだ。それが蕎麦食いの王道とされてるのに、その食い方になかなかならない。
醤油が濃くて黒くて甘いあの蕎麦汁、あれに先だけをちょんとつけていただくのにはあのサイズは便利じゃない。あれ?という感じ。
これ、例えを敢えて言ってみれば、バットが空を切って空振りしてしまう感じ。
んで探して見るともうひと回り小さなサイズの蕎麦猪口というもの、これが案外とある。
少し小さい、それこそ小型のプリンサイズのものがちゃんと売ってる。骨董でもちゃんとある。どうもこのサイズが本流なんじゃなかろうか。
蕎麦猪口が小さいと蕎麦徳利がどうしたって必要になる。伊達や飾りじゃなくて必要になる。大きいのじゃ徳利から注ぐほど減らないから、蕎麦猪口一杯ですっかり食べ終わったりしちゃう。
そう考えると正解というか、本来はこっちなんじゃないかと思う。
あれはきっと今でもわかってる人たちがいるから売ってるってことなんだと思う。
昨日も見た。柄が気に入らないので買わなかったが、古伊万里の「明治が入った」という蕎麦猪口、500円だった。
そりゃ店なんかじゃそうはいかないかも知れない。
猪口が小さくてケチ臭く思われても困るだろうし、あまり売られてないものを使うんじゃ高くつく。そういう理由だけかなと思ったりする。
だから自分で蕎麦食うときは蕎麦猪口は少なくともその二種類あるといいというわけ。選ぶ楽しみというだけでなくて。
ただの「ざる蕎麦」と、天麩羅とかなんか色々とつけたりして蕎麦を楽しむ場合と。
なーんてつらつら考えていて、もやもやした決め手になるその「証拠」ってのを思いついた。
昔の落語家、噺家たち、名人たちの「時そば」という噺を思い出してみりゃいい。あの噺では蕎麦を食うところをみんながやるが、あれ、みーんな小さい蕎麦猪口だよ。
掌で抱えるようにして食ってるんだ。そんでズズッっと粋に演る。
みんな「手に持つ」というより「掌で抱く」という感じで演ってるんだ。そして、ちょんとつけてズルっといく。
だから、盛り蕎麦。蕎麦だけをやるってなら、やっぱり小さいサイズの蕎麦猪口が正しいんじゃないか。
違うかね?
