蜘蛛の子を散らすように
そんな言い回しがあります。
「まるで蜘蛛の子を散らすように、ワゴンセール終了の合図とともに人々はその場所を離れていった」
言ってみればそんな表現になるでしょうかw。
人々はワゴンセールとなればすぐ集まってくるものです。
店員はさんざん盛り上げといて、時間がきたら鐘なんか鳴らして終了させてしまう。
そうすると、まるでそこに残っていたら損になるとばかりにみんな逃げるようにしてその場を離れてしまいます。
誰も追っかけたりなんかしないのに、人があっという間に散ってしまう。
得をしたことが後ろめたいのか、申し訳ないのか。
残ったのはカラになったワゴン。
なんてwww。
この「蜘蛛の子を散らす」という表現ですが、アタシは昔はまるで現実感がなかったものです。
だいたいアタシは蜘蛛の子を見たという覚えがありませんでした。
そして散ってゆくほどの蜘蛛の子って、その感じがどんなものか、まるで想像がつかなかった。
古い文学なんかで使われた表現、そのぐらいにしか思えませんでした。
それは古い言い回しですから現代の暮らしとは合わない、きっとそんなことだったのでしょう。
ウチは古臭い昭和の生活を続けてきて、それがやっとわかったのでした。
ここ二、三年でしょうか、秋口になると蜘蛛の子をよく見かけるようになりました。
原因は二階の寝室に漆の菓子皿を置くようになったから(笑)。
相撲を見るのに菓子皿を使うのですが、置きっぱなしにしとくことにした。
それからです。
その漆は津軽塗りで裏が真っ黒です。だから白いものがよく見える。そして気がついた。
伏せて置いている漆皿の裏に白いポツポツとした点がある。
ホコリかしら、なんてよくよく見るとワラワラとそれが動くw。
キモい、なんて、そんなことを感じさせるほど大きなものではありません。小さくて何かも見えませんw。
蜘蛛の姿カタチさえ判然としない。
とがった鉛筆で点を打ったぐらいの大きさです。ボールペンの先ほどの大きさもないのです。
黒い漆についたホコリのような白い点が動いているのがわかるというだけ。
それが蜘蛛の子というのも、動いていることで想像できるだけです。
手をかざすと、集まっていたところが静かに広がって散ってゆく。
逃げるというよりフワっとホコリが風で舞ったようにその点が散ってゆく。生きているのが少しだけ分かる動き。
それで、ああこれが「蜘蛛の子を散らす」ということなのか、そんなことが知れた。
昔は漆の皿なんてどの家にもあったはずです。各種あれば真っ黒の漆もひとつはあったでしょう。
今はあまり使われないかも知れません。
可哀想ですがいくら蜘蛛が益虫といえどあまり増えても困ります。
アタシは水で流したり布巾で拭ってしまいます。
虫眼鏡で見るということもアタシはしたことがない。
むやみに情が移っても嫌だ。
それにホントにキモかったらトラウマになる。それも嫌だからw(笑)。
陽がよく照った日、朝など部屋に背の低い冬の陽が射してくると、驚くほどホコリがたくさん積もっているのが見えます。
細かなところがよく見えてしまいます。
そこかしこ、どれだけホコリを被っているか、それが分かってしまいます。
だから見ないようにする。これを全部掃除するなんて大変すぎる。
気が向いたらやる程度なのです。
「こんな家に住まわせてすまない」、なんて家内に申し訳なく思うこともあるけど、彼女は涼しい顔をしているw。
そんな陽の光で気づくホコリでも、気がつかれないで大きくなってゆく蜘蛛の子もいるのでしょう。
なぜかヤモリの話をしたのを思い出した。
クリスマス休暇、みんな家に帰ってゆく。
待つ人よりも行く人の方が想いは深くなる。
その道程に何か啓示はないかと探しながら。
だから旅のわずかの時間が途方もなく感じられてゆくもの。
帰る場所のない人にも、その心にはきっと想い出の場所がある。
帰る人よりも帰らない人の方が想いは深い。
過ぎ去った日々を思い起こすその気持ち、それは誰も知らない自分だけの追憶。
心躍る道だったり厄介事への道だったり、人の事情はそれぞれ。
年末の帰省や旅行は楽しいことばかりでもないかも知れません。
年の瀬になるとなぜか必ず揉め事が起きて、帰りのドライブも気が重かったり。
でも、上から見ればみんな蜘蛛の子、散らすようにして動いている。
どっちにしてもあまり変わりない。
おそまつ
