ほうれんそうが基本だろ
映画を見ているとイラつくことがある。
見るのはほとんど洋画だが、納得できない描写がある。
映画の中で主人公たちが重要なことを伝えたり報告しないことが多いのだ。
それにとても違和感がある。
実はゾンビに感染してしまったようだ。もう周囲が囲まれてしまった。あいつは見たことがある。弾がもう残りわずかしかない。などなど。
いっつもw、いつも黙ってるw。
そして何かを言いかけてつまる。「何?」「いや、いいんだ。」
なーんて言う。
あり得ない。言いかけて黙り込むなんて。
そして相手も聞き返さないなんて。
アタシは物事をハッキリさせたい。
伝わってない、そう分かっているまま放置するなんて決してしない。
なんとなくのフレーズや言い回し、雰囲気だけじゃ困る。気持ちや内容が通じてのコミニュケーションだ。
その上、人と人は一期一会だ。
生きていれば大事なことだらけだ。疎かにしていい時間なんか一瞬たりともない。
伝えたかったなんて、後悔は先に立たない。
言えなかったこと、やらなかったこと。後で後悔するぐらいなら今立ち向かう。
「それじゃ映画にならないでしょww」
なーんて家内は言うが、そんな基本的なところが疎かでどうする。
緊迫感を描くというなら、仕事ぶり、テキパキと片付けてゆく中に動いてゆくことがある。なぜ誰でもやっていることを描写しないのだ。
「ほうれんそう」は大事なのだ。
報告・連絡・相談。
しかし、考えてみると、欧米人は「言わない」ということがよくあることに気がつく。
連中は重要なことをわざわざ言わない。まるで成り行き任せ。
そんな傾向があることに気づく。
言うべきことを後回しにすることが意外と多いのだ。
「はじめに言葉ありき」
聖書にあるからと、彼らは発しない言葉は神に任せているつもりなんだろうか。
そんな風にも思える。
あのイタリアの人もそうだったんだろうか(泣)。
アタシにはそれは呪詛にしか思えないけど。
「日本人は沈黙の人々だ」「日本人は黙っている」なんてよく言われるが、欧米人の誤解、レッテル貼りもいいところだと思う。
日本人は欧米人のようによくあるフレーズや言い回し、言葉遊びに溺れたりしないというだけだ。
連中は余計な無駄クチはきくが肝心のことは黙っている。
対して日本人は無駄なことは言わないというだけだ。
「アイツはひとこと余計だ」なんて非難されるのは不用意なことを言う奴だからだ。
それは不用意な嘲りだったり、軽視した言い方に聞こえ、考えなしの言葉だから嫌われる。
考えたこと、理解したこと、知っていることを黙っているというのはあまりない。
だいたい、「守秘義務」なんて日本人は一番苦手なことではないかw。
教師がベラベラと他の児童のことについて喋っちまうなんてあまりにもよくあることだ。
「お客様の個人情報ですのでお答えできません」なんて、それ自体が「情報」ではないかw。
それを言うなら「お答えする立場にありません」それだけでいい。
松田聖子たちが娘の自殺について「本人の名誉に関わることなので話せない」なんて言ったそうだが、遺書があり、おそらく不倫にまつわる自殺なんだろう。
そう言ってるも同然ではないか。
バレバレだw。
それとも、それは死者さえも利用する芸能人特有のパフォーマンスなのかw。
まあ、関心はないけどw。
想い出は悲しみとともにあっちゃいけない。
いつか想い出をあの世に持ってゆく時、それらはみな素晴らしい心残りのないものであって欲しい。
いく星霜も重ねられてきた歳月の重みがあるのなら、それはきっと後悔のない決然としたものであるはずだ。
運命を生き、定めに従う人々が、互いに言葉を交わしあい確かめ合った記憶、それが想い出なのだ。
言葉を惜しまないから黙ることもある。
沈黙の中に伝えられることもある。
ならば不断の連絡と報告、相談が戒められているべきだ。
アタシはそう思う。
沈黙の使い方を間違えてはいけない。
「沈黙シリーズ」なんかじゃないw。あれは日本だけが勝手につけたタイトルだ(笑)。
「黙っていればいい」なんてことはひとつもない。
「黙っていた方がいいこともある」というなら。
しくじった時、そんな心残りがあったことを恨みに思う。
悔しくて、いたたまれず、苦しくなる。
もしあの時、違ったことを言っていたらと、繰り返し心は苛まれる。
メリークリスマス。
おそまつ
※ まあ「沈黙は金」って言葉は日本の言葉じゃないですから。
間違ってはいないでしょう。
今の世代は「ほうれんそう」なんてどう考えているのか知りませんが教えられているのか。
報告・連絡・相談。
最近は仕事のやり方も変わった。
アタシもオヤジになったのかも知れません。
チキンのオレンジ煮とシュトーレン。
早く食べたい(笑)。
あなたも食べたい。
