焚き火していた頃を懐かしむ
火を絶やすな。そういう言い方があります。
焚き火、キャンプ、囲炉裏端。
誰でもそんな火に絡んだ言葉に一度は聞き覚えがあることでしょう。
火をたいていれば猛獣は近寄ってこない。熊に襲われる心配はない。
寒さをしのぐ暖をとり、何か汁を作って温まれる。
アタシも家内に言ったものですwww。
「もっと薪を集めろ!」
山歩きして夕暮れ、落ち葉をかき集めて二人で暖をとったこともありました。
注意したけど山火事になりそうでちょっとヤバかったw。火が大きくなってしまい小さくするのに苦労しました。
あれも思えばこんな季節でした。
火は昔は今よりもずっと身近に感じられていた、振り返りのこと。
火に込められた私たち人類の想いは様々な言葉に比喩されています。
魂の炎を燃やせ、闘争心に火をつけろ、「恋の嫉妬、紅蓮の炎」なんて言い方だってありますwww。
火は人間にとって欠かせないもの、日常だったはずです。
火を扱えばヤケドもしますし危ないものです。火事になれば命に関わります。
女遊びでヤケドして、刃傷沙汰で命に関わったり・・・(略)。
それはだから、「火は扱いに注意すれば使いようがある」という、人間らしい自制心や知恵そのものだったのです。リスクを考えながら扱おうとする人間の理性です。
私たちの火は、そんな人類の心が実体となった炎そのものです。
顔が熱くなりながら燃える焚き火を見つめていると無心になる。
火の動きや燃え方を注意深く見ていると、私たちは人間らしさを取り戻します。
そこには穏やかながら「決意」のようなものがあり、私たちは決然と火を扱います。そこにはDNAに受け継がれてきた私たちの人間としての魂を癒すものがあります。
獣のように欲望のままでは火など扱えません。ハイエナのようにナマ肉をほふるのが関の山です。
節度と注意力を持って火を扱うから我々は温かいものが食える。
そんな当たり前の常識が今や覆ろうとしているのでしょうか。
落ち葉や枯れ枝を自分の庭で燃やせばとたんに119、消防が呼ばれてしまう。
プラ次郎はレジ袋をやめさせましたが、その効果が疑問だと問われると「ゴミ排出を少なくしようとの精神的な教育効果を狙ったもの」などと言い訳をしました。
まるでヒステリーのように、どこもかしこも燃やすことを躊躇するようになった。それが地球環境問題などとコジつけられてしまえば歯止めはありません。どこかおかしくはないか。
それは逃避や責任逃れの、思いつきにしか見えません。
あの小泉プラ次郎の言い草はその象徴のように思えます。
火を消しておけばとりあえず何かを達成できると思えたのでしょう。
しかしプラゴミから有害ガスはもはや出ませんし、ゴミ焼却場は燃料としてプラゴミを利用してきました。
プラゴミが足りないのでゴミを燃やすのに燃料を買わなければならないという始末。
火が悪者扱いされ、地球温暖化につながるとあちこちで火が問題視されるようになりました。
オール電化がいいと言われるようになりました。
先進設備、安心安全のオール電化です。
暖房は灯油など使いませんしガスコンロは電気、電磁調理器です。風呂の給湯すら電気。
そうして暮らしを見渡せば、どこにも炎というものがないのです。
昨日もお話しましたが、いったい、何ヶ月もナマの火、炎を見ていない人というのがいるはずなのです。
本当にこんな暮らしでいいのでしょうか。
まるで人類が火から逃げている。
私たちは愚かで、扱いなどまともにできないからと、安全安心ばかりのアレルギーで炎から自身を遠ざけているのでしょうか。
だから、逆に愚かさばかりの世の中に見えてしまうというのは、気のせいでしょうか。
ドロドロになり溶けた鉄を流し込むH型鋼製造の動画は建設需要の象徴でした。
日本の産業は鉄とともに成熟し、そしてバブルを絶頂期として鉄が浮かんで木が沈んだww。
新日鉄は日本のフラッグシップだったはずです。
その景気は実態が分からないほど混沌としています。飛ばし、低賃金、非正規雇用、内部留保、どこか健全でない予感がする。
この好決算の連続はどこかおかしいと言う人もいます。
火から人類を遠ざけ、未来のためにと言いながら思考停止に陥ってはいまいか。
溶鉱炉に溶けてゆきながら、人類の味方となったターミネーターT800は自身を処分することで人類の未来を守ろうとしたのでした。
そして中指を突き出したのですw。
アスタラビスタ!
グレタ・トゥンベリがCOP26に中指を突き出した時、憎悪に燃えた炎が見えた!
河原や海辺なら消防も手が出せません。
どこかいいところを見つけて焚き火をしてもいい。
アタシも以前はよくそんな風にわざわざ出かけて焚き火をしていたものです。
家内ともよく焚き火をしに行った。
二人で炎を見つめ、ちょっと濃い目のチューハイを飲んで、ボンヤリと過ごした。
昨日は煙管がことのほか美味しかった。
プカリンの煙もまた炎の従者です。
アタシが子供の頃はガッコでは石炭ストーブがあってコークスをもらいにコークス置き場にに行った。
温かいストーブの中は炎が盛んに燃えていて、中でよく火がよく見えた。
正月になれば「お焚きあげ」なんてやって、前年の厄を燃やすなんてことをします。
いよいよそれも中止だなんてことになって、いったいこの先、どんな災厄を持ち越してしまうというのでしょう。
少し前のこと、アタシは珍しいファンヒーターを見かけて、ちょっと欲しくなってしまったことがありました。
そのファンヒーターは暖炉をモチーフにしていて、暖炉の火が燃えるような仕掛けがされていたのです。
電気ヒーターが薪の暖炉を模していて、LEDか何かも使ってパチパチと暖炉の中が燃えるような演出がされていたのです。
暖炉はフェイク。暖気を送るのは裏の電気ヒーターです。
アタシはこれがすごく欲しくなって悩んでしまったw。
アタシは冬にスクリーンセーバーで暖炉タイプのを点けていたこともあります。今でも探せばスクリーンセイバーのそんなのは簡単に見つかるでしょう。
火を手放してはいけない。猿に逆戻りだ。
アタシは火が恋しくなっていたのでしょうか。
この頃は火から遠ざかる一方の人類というのを薄々感じていたのかも知れません。
ストーブも灯油代のせいで使わなくなっていました。真冬は家でダウンジャケットで過ごしています。
ウチの石油ストーブは「輻射式」というもので、いわば「炎」を利用したストーブです。
とても暖気が穏やかで暖かく、空気が汚れません。
サンポットという北海道のメーカーのもので、煙突が室内から出る本格的なものです。
これが暖かくて毎年とても癒された。
そして、ついその真っ赤なところを見つめてしまう癒しw。
でも灯油が高くなり続け、OPECのゴタゴタどころかサプライチェーンの問題で高止まり。
日本も政府がわざわざ高い時に買い入れた愚かな備蓄のせいで灯油もいっこうに安くなりません。
そしてこの温暖化騒ぎで燃料需要が高まって高騰しています。
いよいよ気候変動の影響でウチのストーブすら炎を奪われてしまったことになります。
だからって電気ヒーターの暖炉、ニセモノで満足するようではいけません。
アタシはガスファンヒーターを買った。小窓からは小さいガスの炎が見えます。
おそまつ
※ ああ、またやっちゃた(笑)。
九州場所が始まってからか、なんだかこんなのが続いている。バタバタしてるのかww。
これも書こうとか、新規作成を開いてそのまま保存。記事の下書きができています。
でもそれはよく忘れる。また忘れて新規作成したりします。
そうすると、前の下書きを使って書くと、更新してもブログの最初にならなかったりします。
そういう記事は「ブログの先頭に固定表示する」としとけば問題ありません。
これを忘れると記事の下書きを書いた順になってしまいます。
埋もれてしまうw。
読んでもらえなかったりしますw(泣)
頑張って見直したりして、いつもよい内容を書こうと思っているのですが、これを忘れると困ったことになりますw。
「先頭」というのはひとつだけですから、最新記事は常に「ブログの先頭に固定表示する」にしましょう(笑)。
そうしとけば最新の記事ははいつも先頭です。
しうばろんながらw
