振り返りのグルメ、ドンブリの平等さ
ドンブリものときたら親子丼、カツ丼、天丼、これがドンブリのトップスリーでしょうw。
じくまであぶんだけの考えですが。
どれも色んなタイプがあると思います。
店によって、地方によっても色んなものがあることでしょう。
それを比べれてみたらきっと面白いとアタシは思う。ずらりと一覧して見てみたいものです(笑)。
そんなドンブリはどれも違ってても、共通していることがあります。それは最後まで食べるというところ。食事に集中して食べるというところ。箸があまり泳がないというところです。
バリエーションは違っても、ドンブリには最後まで一気に平らげるという諒解がある、そんな気がするのです。
ツユだく系のもの。
アタシはドンブリといえばツユだく系が基本だと思う。
タレがたっぷりとかかってご飯に滲みていて、まるでお茶漬けのような感じのもの。牛丼で言えばツユだくです。
牛丼の吉野家が登場して全国的になり、それまで捨てられていたようなクズ肉に相場が立つようになった。いつのまにか新聞の商品欄に日々の相場が載るようになりました。
まあ牛丼なんて近代の食い物ですから別ww、やはりそこは親子丼でしょうw。
親子丼なんかは特にそうですが、上はタレがかかったご飯でも、食べ進めてゆくと最後の方にはタレがドンブリの下の方で少し溜まっているというのがよくあります。
まるで味噌汁の最後に味噌カスが残っているような感じになります。
そうして食べ終えてみると、「なんだか食べたなぁ」と、そんな満足感を感じるのです。
実際、アタシのよく通った店では親子丼はまるで卵かけご飯かというぐらいにタレがよく滲みていた。
食べてゆくと最後に卵の混じったタレがご飯の熱さで固まってる。
シンプルだけど美味しい親子丼でした。今は同じものを自分で作ってますw。
しかしカツ丼というとそういう記憶があまりありません。
グリンピースかサヤエンドウか、もしくは三つ葉なんかが上にちょっとだけ乗っている。
店屋モンだと蓋がしてあった。
半熟もそこそこでとじたら出来上がり、それが蓋をして蒸されてお客のところに届けられるまでに完成する。熟成するのです。
店屋モノだとその蓋を開けるとタクアンが一緒に中に入っていて、タクアンの黄色い色がとじた卵の白味部分に移っていたりした(笑)。
サヤエンドウもカツ重の部分から剥がすと緑色がうっすらと移ってたりした。
そんなカツ丼はジクジクとタレは滲みていなかった。
だからあのツユダクというのは親子丼特有のものなのか、どうか。
天丼ときたらやはり「海老天」でしょう。王道だとアタシは思います。
あれに他の具はありません。
中には色んな天麩羅を入れたものがあると聞きますが、それは天丼というより天麩羅丼だとアタシは主張したいww。
かき揚げが入ればかき揚げ丼ということです。
天丼というのは大きな海老の天麩羅が二尾、尻尾が蓋から飛び出している。
それが天丼というものだとアタシは思っています。
キスだのホタテだの、色々と天麩羅が入ったのは確かに魅力的だけど、ドンブリという感じじゃない。
それなら別皿、セイロか何かで出してもらい、天麩羅のタレに大根おろしを溶いて、ご飯とゆっくりいただきたい。
天丼というなら海老天だけ。
天麩羅を注文して目の前で揚げてくれる店なんてあります。
アタシも昔からよくご馳走になった。ああいう店なら天麩羅は各種ある。
注文も欲しいものをその都度頼んで、ネタも濃いものから薄いものなんて色々と作法や工夫があるようです。寿司屋みたいな感じ。
しかし天丼となると「(海老)天丼」です。
あくまでアタシだの育ち、認識なのかも知れませんが(笑)。
その天丼のタレはやはり甘辛で、醤油ダシの濃くて甘いタレです。
鰻の蒲焼ぐらいというぐらいのタレです。
薄いと天麩羅のツユになってしまいます。
胡麻油で海老天を揚げたら、どっぷりとタレにつけて色を変えご飯に乗せる。そしたら蓋をしてやはり蒸らす。
天麩羅がサクサクというよりもブヨブヨと太っていきます。
パリパリなのは海老の尻尾だけ。
もちろん尻尾も美味しくいただきます。
やはりタクアンが添えられて蓋をされてますから、ご飯に黄色い色が移る。
海老天の汁がよくご飯に滲みてだいたい茶色になっている。
まるであれはスナック菓子のような天丼だと家内は言っています。
江戸前の天丼には家内は納得できない様子ですw。
そんな振り返りのこと。
天丼もタレは最後まで残りません。
ご飯を進めてドンブリの最後に行き着くと、その過程でどんどんご飯にタレが滲みてゆきます。
食べ終える頃はちょうど良いぐらいにタレもなくご飯もちょうどなくなっている。
ご飯が油やタレを吸いながら天丼は胃袋に消えてゆくのです。
「ドンブリメシ」なんて言い方がありますが、そこには一種の悪い言い方、下に見たようなニュアンスがあるものだと思う。
いいたかないですがそれは「庶民」という感じ。
なんであまり言いたくないかというとwww、これは最近エセ政治屋なんかがよく使うようになって、偽善的な言葉に成り下がったもんだから(笑)。
「ドンブリメシ」は毎日を追われるようにして暮らす宵い越しのカネをもたないような連中の食い物。毎日が忙しくドタバタと騒がしい。
食事なんて「食いモン」で、酒は呑んだり嗜むんじゃなくて「かっくらうモノ」www(笑)。
時が早く行過ぎて、立ち止まることのない人々がいる。
そんな野卑で下世話な、ごく普通の生活ニュアンスです。
「ドンブリメシをかっこんで、シーハーいってりゃ世話ねえさね(笑)。」
なーんてwww、でも遊び人のくせに毎日「忙しい、忙しい」なんて言ってドンブリメシを食っていやがります。しかしやってることは博打だのオンナ遊び(笑)。
それでそんなに暇がねえって、ロクに働きもしえねで・・・なーんて。
そんなのもあるw(笑)。
ドンブリというのはオカズメシでもない、かけご飯でもない。
タレで具をまとめたというところ。
上品とは言いませんが、何か食事が別なものになった。
ドンブリ文化のおかげで、我が国の暮らしにはリズム、生活に勢いがついたような気がしないでもない。それは江戸時代から現在までに至る変化の気がします。
そしてもうひとつ、アタシはそこにはある種の平等を感じるのです。
ドンブリは「大盛り」なんてあまりやりません。
「俺にはご飯や具を多く寄越せ」なんてのはあまりない。
大盛りはできないのが普通です。
カツ丼や親子丼、天丼にしても大盛りはあまりない。
牛丼は大盛りがありますが、そこがちょっとドンブリシリーズとしては別に感じてしまうw。
ドンブリモノは碗にちょうどのサイズなのです。
それでも差をつけたいってなら、せいぜい「上」と「並」ぐらい。
「決められた分量なんだから大盛りだなんていっておくれでないよ。」
なんて。おかみに叱られるかも知れないw(笑)。
徳川家康公は天丼の食いすぎで死んだなんて話をその昔に聞いたことがあります。
ご自身も京の公家衆のように品良くなんて思わず、気取ったりするのを嫌ったとか。
やはりどこか平等、公平なものを感じないではいられません。
ファーストフードとは言いませんが、ドンブリは食べやすく、どっかしら平等で、そしてペロリと最後まで平らげられるような、そんなものです。
結局、どんなドンブリでも人はみな最後まで残さず食べて、最後にはそのドンブリの底を見るのでしょう。
誰でもその底を見る。
上品ぶって底を見ないなんてことはない。
だったら、そのドンブリの底に店の家紋でもあったらいいのではないかとアタシは思う。
どうか。
しかし残念ながら、そんな屋号や家紋が器の底にあるようなドンブリを出す店をアタシは知りません。
あれば商売繁盛だと思うのですがw。
これがホントのドンブリ勘定というやつwww(笑)。
おそまつ
めいしくおしあがれ
