哀しくない人形遊びとは
まだ残暑厳しい。
暑いので冷たい食事が嬉しいとチラシ寿司、イナったその残り。
ワカシの刺身、刺身がぬるい冷蔵庫は冷えているのかなんて家内は言ったが、キンキンに冷えた刺身というのもなんだかおかしい。
ワカメとタコの酢の物、タコはちょっと古かったので湯通しをして酢につけました。「宝尽くし」の器に盛る。
タコの手は多いから多すぎることもないww(笑)。
ヒイカも酢味噌でいただく。酢味噌であれから何度か偽ハモのタラをやってるから冷蔵庫ににある。
鱈の湯引きはとても美味しい。コショウをかけるのも気に入っている。
ジャガイモとインゲンと人参の味噌汁。具沢山。少し赤だしと合わせる。酢メシ系にはやはり赤だしが嬉しい。
厚焼き玉子、糠漬け、白菜の漬物。茄子の煮浸しは冷蔵しておいた。
作ったばかりの自家製のガリ。新ショウガが安く手に入った。よく冷えていてエグさがきにならず美味しい。
・・・さすがに食べ過ぎた。これはいけません。
散らかさず穏やかにいただいて、汗をかかずに済んだと思ったけど、腹がすっかり一杯になってしまった。
このところ少ない食事にしていたのに。
もう秋がすぐそこに来ているのか。 食欲の秋。
「悲しき人形遊び」そんなタイトルはどっかで見た気がする。
「哀しい」とした方が今日の話題には近い。
人形というのを操るモノ、シミュレーションのコマと考えてしまうとその遊びは哀しいものがあるかも知れません。
だっていつかは物事は終わりを迎えるものだから。操られてその行き着く先、シミュレーションするなら結末が必要になる。
その結末を見届けたいと気持ちが前のめりになる。終わりに向かって人形遊びがエスカレートすれば哀しい結果にしかならない。
アタシの人形遊びはいつもそんなのだった。
アフガンはカブールを離陸した最後の米軍機。
意味のない二十年の軍事行動は終了した。めでたくもなし。
ビニール製の人形を戦わせる、怪人のキャラを設定する脳内。
相手は邪悪な悪党だ。唾棄すべき悪だ。彼らの罪は最初から決まっている。
戦え。正義は悪に対峙する。
容赦のない戦い、怪人もヒーローに打撃を与える。
腕を引きちぎりダメージを与える。頭をつかんで振り回す、カラダを歪めて痛めつける。
パンチだキックだ、反撃だ。そうして強さとは何かを自ら学ぼうとする。
戦うなら油断があってはならないことを知る。
正義を振りかざす。どんな場合にも大義が必要だ。
怪人は悲鳴を上げる。しかし悪の彼らに慈悲などかけない。その奇態な姿、その醜さが彼らの悪行を象徴する。
追い詰め、やっつける。向こうからも反撃はある。
やがて戦いはエスカレートしてゆく、全てがメチャメチャになる。
とうとう人形が壊れてしまう。
もう回復はできない。
荒れ果てた状態にハッと気がつくとうんざりし、投げ出してしまう。
現実は回復などできないことを知る。片付けることもしない。
そうして、哀しい人形遊びはいつも散らかった状態で終わってしまう。
でも、感情移入ができるならそれは楽しい。
決して哀しくはない。
「人形を動かす」のではなく、人形と一緒、人形を可愛がることができるなら、人形遊びはきっと楽しいのだとアタシは思う。
リカちゃんやワタル君になって二人で買い物したり、お出かけしたりww。
自分の分身だったり自分の感情の一部だから壊すようなことはしない。結末を見ようとエスカレートすることはない。
遊ぶ人もそこに一緒に生きているから。
ポーズをつけて、変化をつけると気に入る場面ができる。
喋り出す気さえしてくる。
思い出になる場面がひとつ出来上がる。
そのシーンのひとコマを止めて、例えば写真に残したり、昔だったら自分の目に焼き付けるなんてことをする。
ポーズを作って時間を止めて、眺めれば楽しい。
そしてまた次の場面が見えてくる。
人形が話しかけてくる。「今度は何をして遊びましょうか」、と。
思いやりや分別をわきまえること、そんな穏やかな人格形成ができていなら人形遊びも楽しめる。
それは着せ替えでもそうだし、怪人でもヒーローでもGIジョーだって同じ。
カメラのレンズが一瞬を捉えるように、私たちの目が人形たちの一瞬を捉える。
それはひとコマひとコマが上手にできたストップモーション。
アタシにはそんな我慢ができなかった。
落ち着きなく常に人形を動かそうとした。
もっと動けと思った。
アタシの言う事をきくと思った。
常に動かして、動きの中に生きているような息遣いを求めた。それはリアルさだった。
そうしてそれが叶わないものであることに気が付く。
気が付いた時には人形はメチャクチャになっていた。
すまない(泣)。

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それぞれの場面や風景には美しさや素敵と思う瞬間がある。
想い出はそれが切り取られて残ったものだ。
それは必ずその前があり原因がある。
ひとつの場面は連続した時間の中に生じるものだ。
そうして終わりもある。終わりを予想することは難しい。
多くの命が無駄に失われた。
メチャクチャにしてしまった人形を片付けることはない。
叱られてやっと渋々やるぐらいだ。
ガレキを元に戻すことはない。
アフガン撤退に思う。
楽しく人形遊びをしていた子は遊び終えると片付けるものだ。
「また今度ね」と言って、ちゃんと箱に仕舞うことができる。それは幸福なことだ。
家内の家では雛人形があって、娘の頃からずっと毎年、箱から出しては飾っていたそうな。
女ばかりで毎年の雛祭りを祝ったそうだ。
仕舞う時、その箱には寄せ書きが書いてあって、「今年もありがとう、また来年ね」と書いてあるそうだ。
これを聞いた時、我が身の貧しさにちょっと震えがきたものだ。くれぐれも家内には秘密だw。
雛人形は実家でまだ出したりしているのかは聞いてない。
もう少しで秋。
みんしょざまい、もうしあげます
※ 夏には夏の、秋には秋のそれぞれの楽しみがある。
我が国には四季があり豊かな自然がある。
二十年経ったのか、その慨嘆は我が身のことを考えるからだろう。
最後に残ったのが希望だという。
「残った」というのは過去形だ。つまりもうパンドラの箱は開かれてしまっている。
邪悪なものに包まれた現実が我々の今の世界の姿だ。
それなら我々は、その希望を箱から取り出し忘れてないか。
「いつも心に太陽を」って言ってたけど、最近はいつもコロナが感染爆発してるww。
おそまつ
