髪の見えざる手
予想を外しまくる「曲げ師」。
☆
神がかっていると思えるほどの「曲がり屋」というのがいます。
そういうのに乗せられてしまうと大変ですが、しかし皮肉にもそういう曲がり屋ほど信じられやすいものです。
彼らの予想の前提は美しいものだから。
生きててよかった、そう思って人は最後を迎える。それが彼らの想定です。
そうして彼らは理想論、べき論から結論を出す。
「どうなるべきか」から予想が始まる。
神の見えざる手は必然ですが、それは決して予定調和的な理想ではないのですが。
しかし物事の終わりは常に惨めなものです。そして予見はできない。
終わりは唐突にやってくるものです。それをまず想定しないといけません。
だからこそ、その途中をもがく、その人々の動き予想できるはずなのです。
終わりを美しいものとして、理想の死に様を前提としたらどうでしょう。
幸福なまま最後を迎えられるという前提であれば、終わりに向かった果てしない上り坂しかないということになる。
それはきっとキツい坂だww。
我々はそんな絶頂で最後を迎えるために生きているわけではない。
それなら、すぐに自爆したって悔いは残らないことになります。彼らはそうしている。
自分で考えることを放棄し、もがくことを拒否して流される。そんな命ということになる。
常に上を目指して登り詰めようとすればどうなるか。
そこで起きる躓きが致命的になったりもします。
しくじらないように慎重過ぎるほどになる。
それはきっと後悔ばかりになってしまうでしょう。
先の見えない刻苦勉励。
言うは簡単ですがそんな修練には人間はそうは耐えられない。
だから結局は怠ける、不貞腐れる、そして投げ出してしまう。
唐突で予期できない最後を迎える前に、すでに生きる意味が終わっている。
想定すべきは「終わりは定めである」という諦観であり、その哀れさ、はかなさです。
どうせ最後を迎えるのだ、だから今の生き様はどうなのか、誰でもそんな風に人生と向き合っているはずです。
それが分かれば読めてくるモノがあるかも知れません。
予想は外れてばかりでもないでしょう。
人の動きで状況が変わる、市況が変わる、様々な世の中の移ろいを読む。
読みが外れてもそれは「いい方に転んだ」とさえできる。
我々は先が見えないから前向きに生きてゆく。だからハヤリの「終活」なんてとんでもない話ですww。
それが相撲の取り組みも、経済も社会も動かす。歴史を動かすものです。
我々は先が見えないから貴重な時間を大事にしようと思う。
歴史というものを大事にしようと思う。
それが世の中の今を変え、動かしてゆく。
先が見えないから人々は息抜きもするし余所見もします。
そうするとまた新たな着想に辿り着いたり打開策を思いついたりする。
シャカリキになってやって「努力している」なんて、フリに過ぎません。
上を見ているつもりというだけ。
ひたすら打ち込んでいるつもりでもそれは同じことの繰り返し。
そんな人には発見がない。
実は自分の可能性を潰してしまっている。
でも、そんな人はあまりいないものです。
みんな「今」を生きている。
だから、そんな人として美し過ぎる理想、美しい最後を前提としてしまえば予想は外れてしまうのです。
人間なんてなかなか思い通りには氏ねないww。
ああすればよかった、こうすればよかった。
そんな風に後悔しても何もなりません。
やり直しはできません。時間は巻き戻せない。
もしかするとしくじったのはツキがなかっただけかも知れない。
でも幸運の女神には後ろ髪がない。
女性でも髪質が細い人だと薄くなってお悩みになるけど、ハゲているわけじゃないwww。
長く垂らした後ろ髪がない。
後になって幸運の女神の後ろ髪を掴むことは出来ない。
幸運というのは慎重過ぎてもいけません。まず掴んでからのお話です。
それで失敗した時、どう挽回するのか。
それから何をすべきか、人はもがいてジタバタして何かをしようとする。
必ず出口に光ありと信じて。
それを世の曲がり屋たちは想定していない。
アタシは今、いわゆる猫ッ禿げになりつつあります。
M字ハゲが進行中ww。
日々、薄くなっている。
それはきっと、色んな場面で、アタシは前髪を掴まれたからこうなったと思うんだけど、まるで覚えがない。
見えない手に掴まれていたのかも知れませんw。
アタシは幸運の女神w。
物事の必然、成り行きを手助けしたいと思ってきたから。
おそまつ
※ なぜ人は曲がるのか。
まだまだ突き詰めたいテーマではあります。
いや、ほとんどの人々は当事者の側にいますから、予想する側の問題とはあまり関係ない。
彼らの耳障りのいい美しい理想論や精神論と、生身の我々は違いますから、それを考えたいというだけ。
曲がってる人を非難など誰もしません。
ただ、不思議だなぁ、そうみんな思って笑ってる。
悪い人たちではないんだwww。
