神の当たらざる手
「曲がり屋」という言葉があります。
いつも予想が当たらない、想定が狂う、観測を間違う。
そんな人のことを言う言葉です。
北の富士勝昭。
彼も間違いなくその一人でしょう。まあ、それはここだけの話w。
NHKをメインに相撲の解説をしていますがいつも彼の言う通りにはなりません。
解説なんですから、競馬の予想屋みたいなことはしなくていいのだけど、飽きもせずおやりになる。まあ面白いからいいのですが、彼はいつも外してしまいます。
★ 優勝予想、出世予想、番付予想、気合乗り、人物予想。
とにかく彼は見事というぐらいに曲げてくる人です。
大相撲解説に過ぎませんが、面白いように曲がる。
北の富士はまるでボーリングのボールのように、ググッと音がするかのように曲げてくるwww(笑)。
最近は感心するばかりですw。
西の力士を褒めれば東が勝ってしまう。
この力士は今場所は元気があると言えば妙に後半負けまくる。
あれだけ大相撲と近く、相撲人生そのものを生きてきた人が、なぜか結果を当てられない。予想できない。
それどころか必ず、北の富士の予想を裏切るようなことになってしまう。
NHKの放送を毎日しているわけでもないのに、彼が話すことがほとんど曲がる。
結果や現実が、北の富士勝昭の予想を常に裏切るのですwww。
こういうことは何も相撲だけに限りません。
株価予想、経済見通し、ギャンブルでも選挙の票読みでも、曲がるヒトはとにかく曲げるものです。
そんな人を見つけたらその人の逆をゆけばいい、だなんて、冗談とも本気ともつかない話まであったりします。
「当たり屋につけ、曲がり屋に向かえ」
なーんて言葉があります。
もちろん、ある種のリズムというのはあるでしょう。
バイオリズムというようなもので、ある時期は曲がってても当たるようになるとズバズバと当たり出すというヒトはいます。
むしろそれが普通ですw。
ところが、「曲がり屋」と呼ばれてしまうヒトにはこれがありません。
嫌だってほど彼らの予想は外れてしまう。
「神がかっている」というぐらいに予想を外すww。
これはどういうものなのか、アタシはずっと考えていた。
ヒトはなぜ曲がるのか。北の富士はなぜ曲げるのかw。
ずっと考えてきた。
確かに予想や分析というのは「当てモノ」じゃありません。
チンチロリンと同じなら勘を働かせるだけでしかないし、八卦なら外れようが当たろうがあまり意味はないのです。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」ですw。
「予想=分析」というのは、その分析過程で結論が出来ることに意味があるものです。
マーケティング・リサーチなんて商売があります。
あれは何も顧客に確実な、儲かるやり方を当ててやるという商売じゃありません。
「予想と外れたじゃないか」なんて言う顧客はいませんww。
あれの一番の意味というのは、会社内部の人が責任を取らなくていいようにするということ。
外部にリサーチ調査を依頼して意志決定過程にクッションを持たせる。
担当者や上級役員ら、意思決定の過程で何かの根拠や判断材料が必要になるとそれを補強してくれる。
それがそのサービスの本質です。
新商品のアンケートを取ってみて評判が悪かったから止めるなんて、まずほとんどやりません。
開発が済んだものを取りやめたりはしません。
もし評判が悪いのが気になればせいぜいパッケージを変えたり、ターゲットを変えてみるぐらいです。
つまり最初から結論は出ているということです。
よく言う「相談事」にまつわるキメ台詞です。
「お前、相談って最初から結論はでてるんじゃないか?」
なんてw(笑)。
マーケティング・リサーチのおかげで失敗しても責任を取らなくていいようになっている。もしくはこれでいこうと、説得するのを後押ししてくれる。
だから当たったかどうかは本来は問われないものです。
でもギャンブルや勝負事、株価予報だとどうしても当たったかどうかが目立ってしまう。
そして注意していると、どうもその人はいつも外しているというわけです。
曲がっている。
もしかすると、それが曲がるのは予想に理想を持ち込むからかも知れない、そうアタシは思ったりします。
それは「美学」と言い代えてもいい。
苦労した力士はこうして這い上がるのだ、歳をとって衰えた力士は引き際を見てしまうものだ。
北の富士はそういうご自分の理想や美学を予想に持ち込んでいる常に外れてしまう、曲がってしまうのではないか。
しかし予想というのが「結果」を見る水晶玉だというなら、どうか。
「この花がどう成長して花をつけるか」じゃないはずです。
「この花はどうなるか」なのですからw。
つまり結果というのは「結末」のこと、「終わり」のことです。
「終わり」なんて、実は残念ながら美しくないものがほとんどです。
その過程が素晴らしいのであって、終わりはいつも無残なものです。
花は枯れてしまいます。
しおれたり花びらを散らせたり、残る結果は無残なものでしかありません。
生き物はやがてはくたばって、腐臭を放つだけ。
それが生きる者全ての宿命です。
その終わりを予想するのに、美学や理想を持ち込めば曲がるのが当然なのです。
生きてゆく過程で輝き、限られた時間の中で花は咲き誇る。
終わりは常に惨めなものです。
過程が全てであり、そこにこそ意味がある。
亡くなって銅像が建ったとしてもご本人には何の得にもなりゃしません。
しかし予想というのは結局は最後の結末を見越しておくことなのです。
だから、その結末に美学を持ち込もうとすると必ず曲がってしまう。
太陽もいつかは燃え尽きるでしょう。
人も花もいつかは朽ち果てる。
そういう冷酷な現実を受け入れておくしかない。
でないと予想は外れ、現実を見せ付けられることになります。
これは、正しいマーケティング・リサーチ、コンサルの態度を示唆するかも知れません。
すなわち、どんな風に売れるか、どんな受け止められ方をするか、その過程を分析してあげるということです。
もしコンサルの観測の通りでないなら市況は違ったものになるでしょうし、間違いなければ事業戦略は適正なものを立てられていることになります。
当たろうが外れようがあまり関係はありません。
水晶玉には終わりしか見えません。朽ちた城が見えるだけです。
その城を巡ってどんな歴史が刻まれてゆくかの方が私たちには大事だ。
「尾張・名古屋は城でもつ」
おそまつ
