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祝辞に代えて、端午の節句

 今日は「端午の節句」。わざわざ断るまでもなく今日は「男の子の日」ですw。

 私は、これを「こどもの日」とするのは無理があると昔から思っていた。
 女子はすでに「雛祭り」で祝ったではないかwww、と。
 
 「こどもの日」などと称してボカして、男子の日であることを曖昧にするのはよろしくないと思っていた。
 大体「雛祭り」は動かしがたく女の子の日でありながら、「男子の日」とするのを憚るというのはどんな風潮だろうか、と。

「戦後レジューム」の正体見たり

 紛れもなく端午の節句は男子の成長を願い祝う節句であり、男が男らしくあれと戦いと出世を願われる日です。


・・・そういえば昔は月経のことを「女の子の日」なんて風にも言ったものですが、今は死語なんでしょうか。

 月経で出血し、時には体調不良になったりする女性のサイクルは、かつて「旗日」とか「アンネの日」とか「メンス」とか、色んな言い方がされて配慮しようとされてきました。

 しかし、最近はとんとそんな言葉を聞かない。
 私が世間ズレしているのかw、世の中がそういうことを忘れてしまったのか、定かでないけど。
 「男女共同参画社会」とやらで、そういう女性の事情には配慮しなくてよくなったのか。





 とにかく、こういう「こどもの日」なんて言い換えはポリコレであり、奇妙であるどころか害しか及ぼさない。
 そうして色んな言葉遣いに遠慮させたり、タブーとして抑圧したり、暗黙の了解で良しとする風潮さえ作り出す。
 それは必ず社会的なストレスになってハネ返ってきます。


 最近ハヤリの「言葉狩り」が濫用され、こういうポリコレが氾濫すれば社会は透明性を失い、馴れ合いと不実が横行することになるのです。
 言論を萎縮させることは意思表示や議論を避けようとする社会になるからです。

 こうして、いわば社会的な価値感があたかも「武器」のようにして利用されている。


 例えば森元総理の発言叩きもそうでしたが、今、善意面をして、妙に言葉の問題で噛み付くのがいます。
 それは明らかに自分でマウントポジションをとりたいがためのコジつけでしかなく、政治利用でしかない。

すなわち、

「ポリティカル・コレクト」ということ





 「女性は女性らしくあれ」というのは、女性の存在というものを社会で捉えたパラダイムに結びつくものです。
 女性を尊重し、その魅力を最大限に引き出そうとする価値感だと言えます。
 「女性らしさ」は男性を惹きつけ、そして家族が生まれ、子孫繁栄につながります。

 もちろん、この共通のパラダイムに縛られないという人たちもいる。
 LGBTというくくりで、今、利用されようとしている人々たち。

 しかしそれは、逆に社会的な束縛からは自由だということ。
 彼らは自由を謳歌できる。
 そして私たちとは違うということで、ビアンならビアン、トランスならトランスなりの存在理由を自分に見出すことが出来るでしょう。

 それは彼らなりの利点ともなります。

 しかしもし今のように、これを「人間は生き物に過ぎない、男女の差なんかない」なーんてやってしまえば、ビアンやゲイなど取るに足りない性的傾向でしかなく、つまり「変態」でしかありませんw。

 トランスとなれば変態どころかもはや「障害者」ではないか。

 それでいいのか。
 「彼ら」と、ひとくくりにされる、彼らはそんな立場を望んでいるのでしょうか。




 器量のよろしくないオンナたの妬みから、あるいは権力にかさのかかったような連中がよこしまな意図から悪乗りしてシャシャリ出てきて、こういう古い価値感というものにクギを刺してくる。
 そして騒ぐ。

 ミスコンを潰し、「ミスター・ジャイアンツ」を「ジャイアンツ・パーソン」と呼ばせww、白雪姫を黒人にせよと要求し、チベット虐殺に知らぬ顔をし続ける。

 その旗を振り回せば政敵を潰せるとばかりに、都合よく政治利用するのです。

 もし、誰しも何らかの当事者として多少でも自覚があるなら、少しは考えたほうがいいのではないか。


 企業で取締役に女性がいないのはおかしい、なんて、そんな結果論が公然と言われるような世の中は異常です。
 そこには論理性が欠如しています。

 そんなものが「企業価値」などになりようがない。
 ESG(環境・ソーシャル・ガバナンス)なんて言って流行らせようとしてますが、女性管理職の登用なんてものをそこに無自覚に入れるというのは間違いです。
 とんだお門違いだ。


 その会社の取締役に女性がいないのは「能力のある女性を採用したり育成できなかったから」というだけの話です。

 つまりそれは結局は「人事の責任」なのですが、我が国の企業社会では「人事」という伏魔殿にはなかなか踏み込めない。

「人事」というのは、責任も取らず企業を腐らせる伏魔殿である

 これを理解している企業は驚くほど少ない。




男は戦さ、出世(出征)せよ、女は嫁入りさせよ

 もし今の時代からすれば、そんな価値感が古すぎて滑稽だとしても、それは昔のこととして楽しむというのが進んだ時代らしい余裕というものです。

端午の節句を祝い、過ぎた時代としてなぜ振り返れないか

 私たちは時代を前に進んでいるのであって、それが「進歩」ということなのです。
 つまり、今の我々のパラダイムというのは、つまり共通の価値感とは、「よい」と思うから選択されてきたということです。

みなが生きるのにより快適だから、古い価値感から変わった

 それが進歩です。


 何も修行僧よろしく、無理やりに悟りを拓こうとし、ヒューマニズムに傾倒したり、倫理的なもので厳しく自分を律するということではない。
 違和感に顔を歪めながら、「女性の尊重」だの「性の多様性」などとやることではないのです。


新しい時代の価値感は、それでハッピーかどうか、それ次第

つまり、そういうことw。

 もちろん、個人なら自分の成長のために艱難をあえて背負ってみたり、一貫した姿勢を取ろうとしたり、主義信条のためにあえて困難な道を選ぶということはする。

 「嫌なことでも受け容れる」なんて、個人の葛藤においてはいくらでも言えることですが、社会集団においては違います。

 「昔の考えと今の考え方は違う」と、もし社会的に宣言されるのであれば、それは「快適」であるのが理由です。あるいはまた「その方が良い」から。
 良い方向に昔とは変わった、そういうことでしかないのです。
 プロパガンダに合わせて女性を登用しようというのは間違いです。


 どうも今のポリコレにしても、人権的なスローガンにしても、ここ最近はあまりに政治利用ばかりです。どうも暴走気味の気がします。

 そうやって、政敵に向ける武器に利用ばかりしていると、その意味自体が空虚なものになって瓦解してしまうしかないのですが・・・濫用は止まらないのでしょうか。






 これはもちろん、「平和」という価値感においても同じことです。

 領土拡大や覇権を拡大させることで国民とその植民地が互いに豊かになり、未開の地に文明を広め、統治によって混乱を止め秩序を作る。
 それはかつては「良いこと」でした。

 そういう価値感があった時代はあります。

 そういうことが「良いこと」とされていた時代だったのです。
 そういう時代には「平和」という概念は薄く、統治を広げることは国家事業のひとつであり、戦争は必然的な衝突でした。

 例えば今、我が国は国内景気の回復に四苦八苦し、デフレからの脱却にもがいています。
 国内で困窮家庭が貧困にあえいでいるそれ以前には、かつてはそうした行き詰まりが起これば外へと解決策を求めたものです。

 これは何が善で何が悪かという話では全くありません。

 生活保護を拒否され「おにぎりが食べたい」と言って餓死する悲劇の代わりに、戦争で兵士の血が流れた悲劇があったというだけです。

 「平和主義」などと軽々しく言って欲しくない。

 オノレ可愛さに生活困窮者を見ないフリしておいて、戦争反対もクソもない。
 かつては餓死の代わりに戦死があったというだけでしかありません。


 もっと戦国時代に遡って言うなら、戦さは男の誉れでありました。
 だから端午の節句には兜やカタナを模したフィギュアを飾った。
 子供の頃から男子は勇猛果敢であれということを刷り込んだのです。

「男なら勇ましく戦って死ね」、そういう価値感はあった




 今の現代で、平和と安定の希求という価値感が「良いこと」であるとするならば、それを維持するための軍備、警戒、法が必要なのは当然のことです。

 ましてや、異なった価値観や遅れた時代の価値感で動く連中への警戒というのは当然のことです。
 第三国からの攻撃を想定することすら放棄するのは、「平和」などさらそら考えてもいず、破滅と混乱、社会を呪っているから。
 だからそうした平和を考えることをタブーとしようとさえする。

 「平和」などといいながら、人にマウントをとろうとするだけの武器でしかなく、自分のために使おうとしている偽善に過ぎないから、防衛や抑止力のことがボヤける。

 憲法記念日、そして続いた端午の節句の祝日と言うのは、実に意味ありげではないかと私は思う。


 もちろん、「異なった価値感」というのは西側自由主義、資本主義、法治主義の国ではない連中のことです。
 我が国の周辺国で言えば、それは中国や北朝鮮。
 韓国もその一角でしょうw。


 平和と安定のために兜とカタナは手から放すべきではありません。

 端午の節句は、そんなポリコレや新しい価値感のこと、男子のすべきことを考えさせる節句であって欲しいと私は思います。





 そして、兜とカタナの他に、鯉のぼりを端午の節句に掲げるというのもあります。

 これは次の家長となる男子への期待を表したものです。
 泳ぐ鯉のぼりにかけて、子供の「出世」というものを願ったものです。

 特に年寄りがそうした期待をかけました。


 ステレオタイプのイメージでしかありませんが、庭で大きくはためく鯉のぼりが掲げられ、今日のような強い春の風に鯉のぼりが悠々と泳いでいる。
 老人が孫の肩に手を置き、二人でそれを見上げている光景があります。

 この意味するところとは、次の世代の家長がすくすくと健康に育ち、自分の死後も家が反映してくれる安寧を思うという心境。
 穏やかで希望に満ちた家族のヒトコマです。

 しかし孫が家長となった姿を老人が見ることはありません。
 息子が跡を継ぎ、孫の世代となるのはその後です。

 人生の終わりを迎えようとしている、ぼんやりと人生を振り返っている老人のため息、かつての家長であったご隠居の思いです。

 思えば長生きしたものだ、と。
 端午の節句は次の世代の活躍を願いつつ、古い世代の退場をそっと祝う側面もあったはずです。


 チマキを食うのは「死者へのはなむけ」の意味があると言われます。
 偉い人が無念の入水自殺を遂げ、これを慕う人々が弔いのため、魚に遺体が食われないよう川にチマキを投げたことが始まりだとか。

 だから、端午の節句が「子供たちの日」ではいけない。ルンパーロームの日では始まらないのですww(笑)。





 そうすると鯉のぼりには、男性が家を継ぐという価値感が支配的なように見えますが、歴史上、日本はむしろ女系社会でありました。

 むしろ女性がキーマンとなって歴史を動かしてきた。
 大塚家具は久美子氏が実権を握って潰れたのですw。


 だから、こうした風習には男性の役割というパラダイムが込められているというだけであって、実はそれぞれの環境や境遇、家督によりそれぞれの判断というものがあったのです。
 「人はそれぞれ」なんて風に、こういう風習を楽しく眺めることさえできないのではいけません。

 こうした文化を「社会から押し付けられている気がして苦痛」なんて受け止めることは余裕がなく、決して豊かな心とは言えません。
 そんな餓鬼道に堕ちたような、異常な人々に私たちの社会が合わせる必要はないのです。


 何も、とにかく女性管理職や女性大臣の「割合」だけを闇雲に増やせばいいということではないのです。

 今のように女性を積極的に活用しようというなら、社会は彼女らに相応の覚悟を求め、兜とカタナで出世を願うべきなのですw。
 社員教育の機会を女性に広げ、女性らしく有能であるという「利点」を持った取締役を育成すべきなのです。
 それは女性がより女性らしくなければ意味がない。
 わざわざ女性を育てるからには女性としてのメリットが活かせないのではしょうがない。


 端午の節句を「男の子の日」とすることに抵抗がある人々は、こうした潮流の本質を深く考えたくない人なのかも知れません。
 どこをどう「平等」にしたら満足するというのか。意味不明です。

 ただ闇雲に女性管理職を増やせばいいという考え方をしたい人々、それはプロパガンダに溺れようとする人々でしかない。
 闇雲にPCR検査数を増やす、何かをやっているというポーズのため、かえって感染者を増やそうとする人々です。

流されず、鯉のぼりのように悠々と泳げと自戒する




 兜のミニチュア、カタナのフィギュアを飾ったり、金太郎のフィギュアを飾ったりするのがこの端午の節句です。

 まるで「フィギュア記念日」のような気さえしてくるけれどww、真面目に考えればもっと有意義なことがあります。
 風説に踊らせられることなく、男の子の節句をもっと明るい希望になるよう私たち自身を振り返りたいものです。


コロナ対策で、五月十一日まで締めるという店が多いようです。
 街はどこもシャッターを閉め、ひっそりとしています。
 補助金をバラまいてアテにされ、まだまだ混乱の収拾はつきそうもありません。


 そうしてGWは「マンボ」で踊っているのでしょうが、今日ぐらいはせめて「タンゴ」で踊る方がいいw。


おそまつ





 今風のタンゴ。
 アタシは若いからwww。こっちの方が軽くて好きww。



※ 日本だとタンゴ専門というのはあまり聞きません。

 日本では社交ダンスの中でひとつの種目としてやられている気がする。


タンゴはエロいww。

端午の節句ならぬ、「タンゴのセックス」

なーーーんて(笑)。






 随分と前のこと、「新宿ぶつかり男」についてアタシは記事を書いたことがあった。


 その節はご批判、反対意見を頂戴したものですww。

 当時はアタシの主義信条から、アタシの真意をお話しすることはありませんでしたが、今回は図らずもそんな話になってしまったかも知れない。
 私は当時とまるで考えは変わっていないのです。そんな振り返りのこと


 わざわざ「アタシは弱い男たちの味方です」なんて、言えるわけはないw。
 オトコには強くあって欲しいのです。


 今回、お話ししたように、我が国が最近、女性の活用に傾き過ぎることは間違っていると思うし、端午の節句を「こどもの日」と呼ぶこと、最近のポリコレには欺瞞があると思っている。

 そしてもっと言えば、女性を尊重しようなんてアタシは思ったことはないwww。
 性別に関わらず誰でも尊重されるべきなんですからw。特に「女性を尊重」なんて言うべきでもない。


 以前の記事は、弱い女性を狙ってやっていること、そのやり方が陰湿で歪んでいるとしただけのお話でしす。

ニュースを取り上げ、「男らしくない、オンナの腐ったような奴だ」と言ったまで。


 だからと言って、アタシは女性というものが狡猾でズルいところがあるのを知っています。女性に不用意に権限を与えるとロクなことはないとも思っている。
 アタシ自身、よく女性と対立してきた。
 
 しかし「オンナの腐ったような奴」という言い方に噛み付いてくる女性にアタシは屈しない。


 男はオトコらしくあるべきで、アタシは男らしくありたいと思うのです。


 ・・・お達者でおられるだろうか。
 見ると、もう三年近く前のことになる。


 あの時はコメントをありがとう。

 改めて思い出し、楽しくお暮らしであるよう切に願っている。



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