価格変動と顧客の忠誠心について
連休中と言えども買出しはする。
このところ買い物をしていて気になることがある。
それは、いつもの店が値段をやたらと動かすようになったことだ。
ここ最近、その店で特に目立つようになった。
トコロテンを百円で売っていたと思ったら、三日後には128円になっていた。
そしてまた105円にしたりしている。
店は特にその理由を説明していない。
顧客としてはその理由が分からない、見えない。
ちょっと困ったことに思える。
私の気に入っている店はいつも潰れてしまうww。それは困る。
小売というのは値上げはしにくいものだ。
時には「メーカーの都合により六月から値上げします。」なーんてわざわざ告知するぐらいだ。商品を値上げするというのは大変なことだ。
こんな、理由が分からない価格の上下をさせていたのでは不審しかないだろう。
その店では期限が近いとか特売とかではなく、理由がなく価格を変動させるようになった。
ただいつの間にか値段が変わるようになったのだ。
ちなみに、実際にはマヨ、サラダ油は全国的に値上げするそうですが・・・。
ここで挙げたトコロテンの例を見れば、たいした価格変動ではないように思えるかも知れない。
だが、100円から128円などの価格変動は、株価ならとんでもない変動ということになる。
もしガソリン価格で同じことがおきたら国民的な騒ぎになるだろうw。
変動と言えば、よく「鶏卵」、つまり卵の値段を「物価の王様」なんて言うが、「価格変動が少なく安定している」という意味で言っているなら明らかにそれは間違いだ。
どこが物価の王様だかまるで意味不明だ。
日本のマスコミはどうしても理解力が劣るのか、そういう単純な認識のミスをして世間に無責任にデマを広げてしまう。
卵ほど価格が上下するものはないだろう。
これはケーキなんかをよく作る人なら実感できることだろう。
いくつもの卵を使ってケーキを作るのに、それでは予定が立たなくなってしまう、別なもっと安い時に作ろう、そんな風に考えることも多いだろう。
そういう感覚はきっと共感できることだと思う。
こういう鶏卵価格を例にしてもわかることだと思うが、価格の激しい変動は我々を気疲れさせるものだ。
実際、卵がないと困るので安い時にはつい買わないといけないような気になるし、在庫もよく考えておかねばいけない。
その上、卵は荷物が多くなれば割れる危険のあるデリケートな商品だ。
だから鶏卵価格の変動を気にするようになると、ひどく疲れるのだ。
それなら、こういうスーパーで何気なくやっている価格変動はどう受け止められるだろうか。
おのずと分かることだろう。
ハンバーガーの価格を激しく動かしたのだ。
そしてセットを安くしたり値段を上げ下げした。
そしてその目まぐるしい価格改定は失敗だとされた。
マクドナルドはこれが原因で業績が低迷していった。
その後、マックはドン底を味わい、今は回復している。コロナも追い風で業績は調子がいいようだ。
マーケティングのセオリーでは、激しい価格変動があると顧客離れが起こるとされている。
小売店にとって良質な「顧客」というのは、我々のような価格に五月蝿い人々のことではない。
彼らが相手にしている主要な顧客というのは我々のような値段に厳しい連中ではない。
彼らの最も重要な顧客というのは、常にその店で買い物をすると決めていて、なんでもそこで済ませるという「忠誠心の高い客」のことだ。
彼らは割合としてはそれほど高くはないが、店の収益にも安定した売り上げとしても、経営の柱となってくれる大事な層だ。
店が相手にしている色々な顧客のうち、「そこで買い物すると決めている」という人々は、強くその店と結びついた生活をしている。
子供をお遣いにやるなら常にその店が念頭にあるし、チラシをチェックするのもその店ぐらいだ。
彼らの生活はその店とともにあり、弁当を作ったり行楽に出かけたり、特別なご馳走を作ったり、喜怒哀楽の元がその店とともににある。
だからスーパーというのは通常、彼らを中心に販売戦略を組み立てるのが常だ。
各種の節句や季節のイベントなどを大事にする。価格だけで売るという店ではそういうことはしない。
業務スーパーのようなところでは七夕や雛祭り用の品揃えはしないものなのだ。
いくら特売のチラシで他の客を引きつけても、それが一過性のものではしょうがない。
だいたい、価格競争があると言っても、顧客の側から値段をオファーできるわけではない。
小売には「指値」はないのだw。
だから店舗は手探りで顧客の出せる金額のアタリをつけるしかない。
そうしてマッチして商売となる。
競争があるのは他の店舗との兼ね合いであり、それは忠誠心の高い顧客をいかに引き止めておくかということだ。
「価格で競争する」というのはあくまでも表面的なことで、「頑張っている」というアピールに過ぎないので。
値段を安い目玉商品を出して「ついで買い」を誘ったりしても、目玉商品についてきた顧客が忠誠心の高い顧客になってくれなければ安定した売り上げには決して結びつかない。
一方、取引市場、卸し市場や取引先との交渉では商品の価格は変化し、常に需給で動いている。
しかし小売業というのはそこから仕入れるというだけでしかない。
小売の現場で同じことをするわけにはゆかない。
だから仕入れにちゃんと利益が「乗っている」値段で売る。
その上で利益が薄くなったり厚くなったりするというだけだ。
処分価格にしたとしても、店が利益が出ない「赤」の状態で売るのはごく稀なケースだ。
つまり小売はオークションやメルカリとは違うということだ
だから店は価格から顧客の「引き」を読み、売れなければ下げる。
それは一方通行なのだ。
そこで売れるからと値段を引き上げてしまえば混乱が始まる。
顧客は裏切られたと思うようになる。
こういう顧客の期待や見込みを裏切ると、残念な結果になってしまうことが多い。
いくら市場性の高い商品と言っても、固定客は価格の激しい変動についてゆけなくなり、もっと安定してあまり気疲れのしない店へと移動してしまうことになる。
忠誠心の高い顧客というのはその安心感も同時に買っているのだ。
だから、メーカーも配慮して、特売用にパッケージを変えて組んで卸したりするものだ。
これは中味は同じものでも、今回はキャンペーンで特別な価格での提供品だから安く、通常はもっと高いものですよ、というわけ。
そうして小売店が顧客に価格のサインを送るのに協力するメーカーは多い。
値段を引き上げたのではなく、それは別な商品なのだ。
店は顧客になるべく言い訳の立つような値段で、顧客に納得してもらえるような設定をして売ってゆくのが定石だ。
そうして店は忠誠心の高い顧客の気分を乱さないようする。
そうでなけば安定した事業環境は確保できないということになる。
顧客の忠誠心ということで、それなら他の例を挙げてみよう。
よく、私など、とりわけ乞食なものだから馬鹿にして言うことだが、目の前にスーパーがあって68円ぐらいでジュースが売られているのに、わざわざコンビニの方で買う人たちがいる。
あれはいったい何故なのか。謎ではないか。
彼らはそれほどコンビニに心理的な依存をしているのか。
よく言われる「コンビニ中毒」という奴だろうか。
しかし真実としては違う。
彼らは値段以上の付加価値をコンビニに認めているから買っているのだ。
彼らはスーパーの並びや他の客層、そして陳列状態の居心地、全てを比較してコンビニの方を選んでいるということ。
会計の時に長々と待たせられるのを嫌う人。
他の子供連れや老人、他の客が目障りだ。
いつまでもグルグルと物色し、買い物を続けている客がウザく感じる。
陳列棚はキレイでなくコストを減らすためダンボールのまま置いてあったりする。そうすると落ち着いてキレイなボトルや見栄えのするボトルを選べない。
楽しくない。
などなどw。
それならコンビニの方が彼らにはよっぽどいい。その方がずっと居心地がいいということになる。
もちろんスーパーにもスーパーの顧客なりの居心地のよさというのがある。
その居心地のよさを裏切ってしまうことは経営としては危険なことだ。
スーパーの場合、そのひとつが価格変動ということになる。
競争の激しいエリアで、店舗が顧客の忠誠心をつなぎとめておくというのは重要で大変なことだ。
だから店は特売というのを言い訳にするし、新規顧客を呼び込むにしても忠誠心の高い顧客を邪魔しないようにしなければいけない。
だから「特売」なのだ。
だから店は「チラシ」を駆使する。
店側はそうして、特売やチラシの商品などとして「特別な価格」だということを示す。
値上げになったのではない。
特別に安い日だったというだけだ。
だから「買っておけばよかった」という後悔もほどほどだw。
そうは家庭で買い置きしておくわけにもゆかない。
店舗はそういう価格が安定しているというサインを顧客に送る。
その呼吸が重要だ。
店舗にとっては忠誠心の高い顧客が重要だということ、そして価格変動もほどほどにしなければ安定して付き合うことが出来ないということ。
毎日の生活のリズムに店舗での買い物を取り入れてもらうためには、顧客を動揺させることは禁物なのだ。
実はこういうことは政府レベルでも普通に言われることだったりする。
安定した物価、原油価格の安定、為替相場の安定、そしてひいては株式市場の安定だ。
特に株式市場で言えばボラティリティの高さは市場参加者を不安にさせる。
「安い時に買い高い時に売る」などと矮小化されて簡単に言われることだが、経済成長に比例して安定的に上昇するのが市場全体としては最も望ましい。
「安くなった買おう」などと思っていれば、下げれば底なしだったり、上げたまま「押し目」がいっこうになかったりする。
実際のところ、市場にボラが目立ち始めると関係者はすぐに囁き始めるものだ。
「これは次の暴落の予兆ではないか」、とw。
企業活動を支える金融市場がそんな不安を抱えていては経済は安定せず成長しない。
こうしたことは何かの比喩と考えてもいいのかも知れない。
それほど「変動」というのは重要なことかも知れないからだ。
変動というと「リズム」や「サイクル」という面がよく言われるが、その幅、つまり振幅というのもある。
例えば、ハッピーで陽気、常に前向きな気分でいることはいいことだ。
このブログのようにキャアキャアやって楽しんでもらえているようでも、実はそれは躁状態だとしたら長くは続かない。
反動に欝がやってくる。
それは鬱病への近道切符だw。
あまり気分が上下するというのはよくないことだ。
むしろ落ち着いていて穏やかなのがいい。
うどんを食うと、私は低血糖の症状ができることが強い体質だが、そうして低血糖と回復を毎回繰り返していればやがてインシュリンの分泌に障害が起きてしまう。
昼のうどんは旨いが私には危険なものだ。
それは糖尿病への道だ。
ブレーキとアクセルを繰り返し、前のクルマをあおり、恐怖させればドラレコで撮影され、ネットに晒される。そして通報。あるいは事故を起こす。
逮捕と破滅への早道だww。
おそまつ
※ 昨日の記事のお話になりますが、「続きを読む」にあるリンク先の記事。
当時の記事へのコメントについては、別におかしなコメントというわけではないと私は思っています。
彼らはちゃんとコメントをオープンにしてきたし、異論というものを正面から私にぶつけてきた。
それは少なくとも率直で、誠実なものだったと私は思う。
言い方に難があったということなら、私もいい加減にクチのききかたは乱暴ではありますww。
当時、昨日の記事でお話したように、私は彼らと似たような考えではありましたが、彼らにおもねるということはしなかった。
私の真意について説明することもしませんでした。
彼らのポジショントークを聞いてはあげなかった。
それは彼ら自身の問題だからそっとしておくべきと私は思ったのです。
つまり、彼らが考えることなのです。だから私はわざわざ説明しなかった。
きっとクドクドしく説明してやることはできたろうけど、それは彼ら自身の価値というもの。オトコの価値を下げることになると私は思った。
傷を舐めあっていてもいいことは何もない。
女子にイジメられて女子を憎むようになるなんておかしい。
だが、それは彼らが考えるべきことだとアタシは思う。
彼らはそれで理解しただろうか。
それは分からない。
よく考えて、卑怯者にならぬよう、その道を選べただろうか。
それも分からない。
それは各自の考えであり判断でしかない。
私が彼らに手を差し伸べることができたとしても、それは余計なこと。
オトコたちは甘えられない。
そんな状況にはいられない。
いつでも。
それが定めなのだ。
私はそう思う。懐かしくコメントを読んで振り返った。
