黒電話からの変遷について
コメントいただきありがとうございました。感謝いたします。




こまどり姉妹、
セントルイス
親子電話、ビジネスホン、ダイヤルイン、留守番電話。
電話受付代行サービス、ファックス、テレホンカード、キャッチホン、電話番号通知サービス、伝言ダイヤル、ダイヤルQ2、自動応答サービス、テレマーケティング。
パソコン通信、インターネット。
NTTの社長
☆
「ピンクの電話」ですか・・・www。
い、いやぁぁw・・・それw。
んっとぅーにw、アタシ同じことを誰かお考えになるかなと、実は思ってたwww(笑)。
なににしろ書きながらアタシ自身が思い出してましたから(笑)。
あれは、母さん、好きな漫才でした。
なかなか面白い漫才でしたヨ。
今よりもずっと高級だった記憶があります。
「品のあるお笑い」は、どこへ行ったんでしょうねw。
あの女性漫才コンビはどこかワクワクするものがありました。
あまり器量がよいわけではなかったけどw、なぜかどこかしら色っぽくて、しかもスカッとするものがアタシにはあった。
今で言うなら「女性の活躍」とか「女性参画」とか、そんなものを正直感じたコンビです。
2036年に女性取締役を何パーセントにとか馬鹿なこと言ってますが、、、。
無能はオンナだろうがオトコだろうが無能だ! 無理!
「ソーリ!」とかって、あんな漫才が政治家やってるんじゃ困るんだけど・・・www(怒)
他にもこまどり姉妹とか、オオトリケイスケと京ウタコとかいた。
くぅぅぅーーーうううっwww!
それはそれは、泣かせる昭和の振り返りのこと、じゃあござんせんかw(笑)。
確かもう亡くなっていたと思ったけど・・・違ったかなw。
ググッてみたけどヒットしないようなのでどうやらご存命のようです。お達者でw。
二人とも亡くなってしまったのはセントルイスという男子コンビ、それは確か。
タバコは吸い過ぎないようにしませうw。
田園調布にウチが勃つ!www

ゴホンw。・・・さてw、先日お話した黒電話には多くの変遷というものがあり、実はそれには長い章が必要だったのでした。
ちっとだけ触れて、なかったことにするというのも無責任、かとw。
今回はその黒電話の変遷についてお話をしたいと思う振り返りのこと。
そもそも「黒電話」がすべての発端ではあったのでした。
電電公社による、「電話」というコミュニケーション手段の普及の幕開けでした。
これが進むにつれ、様々なサービスが付加されてゆきます。
電話という単なる「糸電話」の延長だったようなものが、音声を電気信号にして送ることだというのが改めて認識され、その信号に載せたりかぶせる形で様々なサービスが展開されてゆきました。
電話の利用方法が深耕されていったわけです。
親子電話、ビジネスホン、ダイヤルイン、留守番電話。
その現代史を振り返ると、「我が国は電話が異常に好きなんじゃないか」と思えるほど百家繚乱です。
電話受付代行サービス、ファックス、テレホンカード、キャッチホン、電話番号通知サービス、伝言ダイヤル、ダイヤルQ2、自動応答サービス、テレマーケティング。
コールバック通信、そんなのもありました・・・。
そして、パソコン通信、インターネット。
これらがみな、ひとつひとつ、日本の昭和の文化を形成するのに一役買っていったわけです。
それらをひとつひとつ取り沙汰していたらとんでもないぐらいエピソードは多い。
・・・そ、それにw、アタシは少し話が長いw。
まあ、おいおい折りに触れていきたいと思いますがw。
もしお話が長すぎたら、広告でも眺めていただきたいと常々思っております(笑)。
最初はもちろん、我が国には公衆電話すらありませんでした。
最初の日本の電話開通は品川間だったとか。
そして、新たな電話というテクノロジを前に緊張した面持ちのエライ方が言った。
「はぁあ(緊張嘆息)・・・、(我ここに)申す。申す。」とw。
それが日本の電話通話の最初の言葉だったそうで、それがナマって「もしもし」なんて今は電話口でみんな言っているんだとか、、、。
その真偽は、、、アタシは知ったこっちゃありませんw。
だってこの噺が面白いんだものw。
まあでも、実はそれほど恥ずかしいことでもないかも知れません。「もしもし」でいいじゃありませんか。
電話開発の祖、アレキサンダー・グラハム・ベルなんかはもっと大変なことをやらかしたw。
彼は、さあ電話開発の最初の通話、セレモニー本番だという時、新聞記者らのいるところでつい助手に言ってしまった。
「おい、ちょっとこれ通じてるかな、こっち来てくれ」
なんて。
これが恥ずかしくも「人類最初の電話の会話」になってしまったのです。
「人類初」と「日本初」ではエライ違いです。
恥ずかしい思いをしているのはベルさんの方かも知れませんw。

公衆電話網の設置というのは莫大なインフラ整備を必要とします。
有線で、どんな田舎でも公衆電話ボックスを設置するというのは大変なことです。
ずっと後になった平成の頃でさえ、ちょっとした田舎に行くと、公衆電話の代わりに黒電話があって、缶にお金を入れて電話をかけさせてもらうなんて所がありました。
その最初の公衆電話は電話ボックスで、赤の屋根にクリーム色、角の取れたボディでした。
今のように透明のガラス張りになったのは後のことです。
電話機はイエローで、上には赤いミニ電話がオマケのようについていました。
その「ミニ電話」というのは消防と警察への専用電話です。
緊急回線ですから誰でも無料でかけられました。
アタシのような悪い子供がイタズラをしてよく電話口で叱られたものですw。
永田町の一部の公衆電話にはもうひとつ、首相官邸へのホットラインがあったwww(嘘)。
まあ、それは冗談ですがw、
しかし「ホットライン」というのも事実、ダイヤルはありません。
米ソの冷戦でキューバ危機の後にできたホットラインはややピンクがかったクリーム色だったと思います。
ドキュメンタリーで見た覚えがあります。
ともかく、公衆電話は「簡易型」とインフラ的な「設置型」がありました。
電話ボックスが「設置型」です。
簡易型というのは、商売のついでみたいにタバコ屋なんかの店先に置いてあったものです。
そこからゴリさんが尾行の報告をボスにしたりしたw。
「きゃつは並木町のアパートに潜伏しているようです。」 なんてw。
簡易型の電話機の色は赤でした。
真っ赤。
まるでポストのようでしたが、たいていはその店先には赤いポストがありましたからカラーを合わせたのかも知れません。
簡易型の公衆電話は、真っ赤なタバコ屋の公衆電話からやがて薄いピンク色の電話になってゆきます。
公衆電話の設置があちこちで許可されるようになり、寮とか喫茶店なんかにも置かれるようになってゆきます。
それが「ピンクの電話」でした。その漫才コンビの名前ですw。
なにしろ昔のタバコ屋さんというのは厳しいタバコ販売条件、許認可条件をクリアしたものでしたから、赤電話の設置は特別なものだったと思います。
それが規制緩和となれば、色んなところに簡易型の公衆電話が置かれるようになるのは必定でした。
色も薄いピンク色へと変わってゆきます。
冒頭の女性漫才コンビも、そんな「規制緩和」の頃にデビューした気がするw。
個人の家の親子電話というのは、黒電話からすぐに薄い緑色の電話になったと記憶しています。
従来の電話と紛らわしいということだったのでしょう。
回線を分岐する電話の他に、通話を分岐するだけの電話というのもありました。
親子電話としてはむしろそちらが最初でした。
それはいわば「子電話」。
子電話というのは暫く、ずっと相変わらず黒電話のままでした。
子電話というのは着信だけです。
会話を三者で話すことも出来ます。
誰かが電話の着信を受けると、「ねーーえ! 電話だから取ってぇ」なんて、サクラが旦那に告げます。
そうすると、ヒロシだかタコ社長だか知りませんがw、その子電話を取って団子の注文とか印刷の注文を受けるわけです。
彼らは発信の必要はありません。
だから、その黒電話にはダイヤルがありませんでした。
「親子電話」というのは、使っていなければ発信も出来るものです。
人が使っているのに受話器を上げると、「カチッ」と音がして、そしてかすかな空気のハウリング音がします。
娘が使っている電話の中味を親が盗聴しようとするとバレてしまう。
娘がツンボでなければw。
この親子電話の発想からビジネスホンが開発され、一つの回線を共有する技術が複雑化してゆきます。
「チェスコム」という会社があって、電話受付の代行サービスをやって多いに成功しました。最初は電話を転送するということをやっていた。
「転送電話のチェスコム」
そんな宣伝を覚えておいでの方もいることでしょう。
電話サービス会社として、まるで会社の受付嬢のように振舞ってくれるサービスを提供していた会社でした。
電話をかけると受付嬢が出て、まるで立派な会社のように思える。
それで、いっぱしの会社に偽装することに使われて、よく「取り込み詐欺」なんかに利用されたものですww。
チェスコムは結局、業態転換に失敗してしまいましたが。

親子電話を発達させれば、会社なんかの事業用に「ダイヤルイン」なんて、電話回線を分岐させる方法も進歩してゆきます。
電話機も複雑なものになってゆきました。
そのため、電電公社は電話機の需要に供給が追いつかなくなります。
公社ひとつではどうにも対応できなくなっていったのでした。
そこで各社電機メーカーが様々な製品を開発し、各種販売することが自由化されてゆくようになりました。
時代の流れは電電公社の独占から市場競争へ、世の電話機は電電公社からの貸与の電話だけではなくなっていったのでした。
この流れで黒電話だけでなくもっとスマートな電話が売られるようになり、家庭でも不純な、、、いやw・・・。
もといw、青春真っ盛りの少女たちのプライベートルームに、無粋な黒電話ではなく各種色んなカラーやスタイルの電話器が入っていったのでした。
黒電話のままだったら、きっと少女たちの生活もそうは変わらなかったことでしょう。
そうして親の知らない彼氏との長電話、少女の仲間たちとの長電話。
果ては積み木を崩したり、バットを振り回して親を追い回した時代へと続きますw。
彼女たちは親子電話を使い、親のカネの通話料など気にもせず、深夜に鶴公のオールナイトニッポンなんかに電話したのでした。
そして、
「あ、ああん!♪ イク、いくぅぅぅう♪」
「ええかぁw、ええのんかぁw♪」
なーーんて、馬鹿なことをやるようになるのですwww!!
けしからんwww!

その薄い緑色はプッシュ回線が主流となると電話機のカラーとして残ってゆきます。
クリーム色のプッシュ回線の電話と、なぜか個人商店にある薄い緑色のプッシュ電話と、電話機のカラーが分けられていた記憶があります。
電電公社からの営業の違いということだったのでしょう。なにしろ昔は電話加入権は「資産」だった。
考えてみると、このカラーの変化というのは興味深いものがあります。
電電公社の交換機が新しくなり、プッシュ回線のトーンでダイヤル番号を識別できるようになりました。
昔はダイヤル電話の「パルス」、「ジーコジーコ」という音の間隔で番号を識別するだけでした。
プッシュ回線になってスピードと様々な付加価値がつけられるようになります。
プッシュ回線の単独の電話機は、これまたクリーム色になったりしました。
こうした電話機の色が薄くなっていった変遷には何かの理由があったのかも知れません。
市場が広がってゆき暗黒時代から薄い次代へと移っていった象徴のように思えるからです。
もしかすると、簡易公衆電話のピンク色というのは、初期の黄色の電話ボックスからきたものだったのかも知れません。
ほら、真っ赤な色と黄色を混ぜると・・・。
なーんてwww。
ホワイトというカラーの電話機は電電公社から供給されたことはなかったと思います。
多くのメーカーが参入し、電話機を作って売っていましたが、電電公社の「公式」の電話にはホワイトはありませんでした。
そこには何かのセンスか自己主張のようなものがあったのかと妄想させるものがあります。
・・・ 今、NTTの社長が告解、いやw、国会に呼ばれてwまた野党が下らん追及をしているようですが、アタシのブログが今回の話になったというのも何かの因縁のようにも思えます。
アタシの家内もNTT株の塩漬けホルダーなのです。
色んなカラー、絵の具入れの全ての色を混ぜてしまうと最後には「黒」になると言います。
「真っ黒け」ということでしょうかw。
アタシはそんな大した疑獄事件とは思いませんけどw。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず
んっ!
おそまつ
※ 主要なキーワードの振り返りのこと。
オオトリケイスケと京ウタコw
「糸電話」
コールバック通信。
ホットライン
ゴリさん
親子電話の「カチッ」と音
鶴公のオールナイトニッポン
・・・。
改めて見てみると、まだまだウンチクとかゴタクとか、電話に関しては言いたいことがいっぱいある。
お楽しみはこれからだw。
って! なかなか死ねないじゃないか!(笑)。
再度、おそまつ
・・・ちなみに、上、左もそうだけどw、よくアタシが書いてる「・・・」これw
・・・ これのことwww
こういうテンテン、「ちょっとした沈黙」の記述表現を「小惑星」って、なかなかいい表現だと思ってたけど、「ラキ☆すた」、あのアニメの主題歌以外で使われているのを聞いたことないwww。
他で聞かないし誰も言わない。
もしかして、・・・アタシって担がれてる?www(泣)
