クロスロードから続く道、別れ道、見放しの顛末
それはそれは、遥か昔の振り返りのことw。
それでも、昔とは言っても、安保闘争なんてとっくに過ぎ去った後のことだったから、実はそんなに昔のことではない。
バブル真っ盛り、その崩壊は始まっていたのだったけれど、「イカ天」なんてテレビ番組が火をつけ、どこの大学でも「バンドをやる」というのが盛んになった頃だった。
そのテレビ番組名は「イカすバンド天国」という奴だった。
その当時、みなが勉強そっちのけで、誰もがバンド活動にうつつを抜かしていたものだ。
その当時、全国の大学は毎年、学園祭で大いに盛り上がっていた。
学園祭の企画と主催は主にバンドをやっていた奴らが中心になった。
学園祭の執行委員をバンド活動の連中がやっていた。
学生たちの学園祭は私物化され、バンド演奏が毎年の学園祭のメインとなっていった。
日本全国の大学がバンド活動一色に染まっていたのだった。
ある年のこと、やや年上の、人生経験をいい加減に積んだ男が入学してきて、そいつはそんなガキ臭い大学生活をかき回した。
彼は財産も作り、損もした。
色々といわくのあった奴だった。
そいつは自分のしてきたことは誰にも話したことはない。
毎年の学園祭の企画会議では、いつも映画の上映会の作品選定が議題になった。
毎年、大学の学園祭では、でかいスクリーンに映画を映して映画上映会をやることが恒例になっていた。
ある年も、その上映する映画を何にしようかという会議が行われた。
そいつは、会議に参加すると、黙りこくって座り、ことの有様を見ていた。
どいつの案も、どれもこれも、ただ家族連れを呼ぼうとするようなシケた映画の話ばかりだった。
「共産党祭り」なんてのもそうだが、左翼の連中はファミリー層におもねる習性があるものだ。
どの案もくだらなくて、すっかり左翼の流儀に染まったような案ばかりだった。
そいつは、今更に左翼を気取る青年たちの救いようのないバカさ加減をいったいどんな目で見ていたのだろうか。
会議の模様を見ていたそいつは、突然に立ち上がると言った。
「クロスロードを上映するってのはどうか?」と。
突然の提案に場内はざわついたものだ。
実は誰もそんな映画のことは知らなかった。
バンドをやっていたくせに音楽性の高い、ロックな映画など誰も知りもしなかったのだった。
先日、紹介したあのギターバトルの映画のことだw。
その映画は、まさにそいつらバンド小僧たちが好きそうなもので、わくわくするようなギターバトル、ロック映画に他ならなかった。
しかし、バンド活動にうつつを抜かしていた連中はその映画をまるで知らなかった。
そして、それは「左翼ではない」とみなが異質に思い、普段から煙たく考えていたおかしな奴からの提案だった。
結局、そいつの案は却下された。
そいつはわざわざ、バンド気狂いの連中のために最高の映画を紹介してやったのに。
もしかすると、実はそいつが最初に思いついたのは「ロッキー・ホラーショー」みたいな過激なものだったかも知れない。
同じようなロック・ミュージック。
しかしそれはあまりにも高級で、当時のお子様のようなバンド気狂いの連中にはもったいないと彼は思ったのかも知れない。
彼がロッキー・ホラーショーを提案することはなかった。
彼は、もっと連中にお似合いの、分かりやすくてカッコイイ映画を紹介してやったのかも知れなかった。
しかし連中は彼の提案を猜疑心で迎えただけだった。
そして結局、上映することになった作品はまるで子供っぽいだけの、まるで左翼が好きそうなお子様ファンタジーになった。
映画は、「ニューヨーク東8番街の奇跡」を上映することに決まった。
その前年には「明日に向かって撃て」なんてのが上演がされていたものだ。
サヨクごっこで満足している連中だった。
そいつはというと、当時、大学の私物化と、左翼志向にうんざりさせられていた。
行動が伴わないただの「ごっこ」に。
同じ頃、その年の学園祭を迎える直前に、その大学では理事会での汚職疑惑が新聞種になった。
そいつは所属大学の名誉のためと、学生側から謝罪広告を出そうと奔走し孤軍奮闘した。
彼は志のあった教授連中にかけあってポケットマネーを出すよう求めた。
何人かの教授がカネを出してくれることに同意してくれ、彼の金、そして学生の積み立て金もアテにできるかも知れないと彼は考えた。
そうして彼は都心の大手広告代理店の幹部と接触する。
新聞広告を出し、自分の大学と学生たちの名誉を守ろうというのがその広告の趣旨だった。
いわく、「ウチの大学が世間をお騒がせしているが。申し訳ない」、そんな内容だった。
結局、理事会の汚職疑惑に対して、学生たちはろくに活動をしなかった。
左翼を標榜しながら、誰も彼の意見広告案にも賛同せず、理事会への抗議はちょっとしたシュプレヒコールをして学内で騒ぐだけに終わった。
広告の予算も誰も出すことはなく、学生たちから徴収される積み立て金はバンド連中の活動資金に化けた。
そいつの計画は頓挫した。
そいつは大学の同輩たちに失望し、それ以上は彼らに構うことはなかった。
彼は人に期待しすぎていたのかも知れなかった。
・・・実はこれには裏話がある。
新聞広告と広告代理店のからみから、彼は「RCサクセション」を学園祭に呼んでやろうと考えた。
彼は忌野清志郎を大学の学園祭に呼ぶ計画を進め、彼と面会までしたのだった。
理事会の汚職疑惑について侘びる新聞広告を頼んだ広告代理店幹部の仲介を得て、彼は直接、忌野清志郎に学園祭での演奏を頼みにいったのだった。
広告代理店の取締役は彼の大学のOBで、彼にこう言ったものだ。
「こんな広告を出したら、君が傷つくことになるかもしれない」と。
彼は、「それでも他の学生たちの名誉は守れるでしょう」と応えた。
「いいですよ(笑)。行っちゃいましょうwww♪。」
忙しい合間のわずか数分だったが、楽屋で会ったキヨシローは快諾した。
当時、忌野清志郎だけでなく、アイドルやロックグループ、多くのアーチストたちを学園祭にゲストとして呼ぶのが流行していた時代だった。
ウチの大学に呼ばないでどうする、そう彼は思った。
キヨシロウと握手を交わし、彼は楽屋を後にした。
これならきっと、バンド小僧たちは歓喜するだろうと期待して。それは彼からのささやかな贈り物だった。
結局、彼は、他の学生たちからは疎まれ、無視され続けた。
彼らは学園祭のお祭り騒ぎで忙しく、「サヨクごっこ」どころではなかったのだった。
誰も彼の謝罪広告の計画を支持することはなかった。
「忌野清志郎を呼ぶには恥ずかしい連中しかいない」、そんな風に彼は大学の同輩たちに失望したものだ。
そして彼はキヨシローの事務所に電話をかけた。
「色々と大学内で軋轢があっため今回は断念します。よろしくキヨシローさんにお伝えください」、と。
こうして、左翼の真似事をしたガキのようなバンド小僧たちは、人生でも最も印象に残ったはずの奇跡、生涯の記憶に残ったかも知れない学園祭の想い出を叶えることはなかった。
その事情を知る奴はいない。
それは嘘と偽善、中途半端を嫌った彼の諦めの帰結だった。
「大学の学園祭を私物化して理事会汚職にもグダグダと騒ぐだけ、ジョンレノンの命日だと学内で騒いでシドビシャスには距離を置くw、そんな似非ロックの連中の学芸会にしたいのなら好きにすればいい。」
彼はそう唾棄したものだ。
「ラブ・アンド・ピースなんだろ」、そう彼は一人ごちたww。
彼はそれ以来、エールを年下の学生たちに送ることは止めてしまった。
やがてその時期に卒業した連中は惨めな人生を辿ることになる。
バブルの崩壊がすでに起きつつあった。
誰もみな、その予感さえなかったはずだ。
欺瞞と嘘に塗り固められた、惨めな青春の結果を、その後の忌まわしい人生をも。
まさに忌まわしい裏話だったかも知れない。
その名も忌野清志郎www。
あーめん。
おそまつ
※ 追記
この話は伝聞。あくまで伝え聞いた話w。
ちなみに忌野清志郎の「忌野」という苗字は完全な創作として成功している。
日本の人名で「忌野」という苗字は存在しないからだ。
すなわち、あくまで「RCサクセション」のキヨシローだけの名前だ。
映画「クロスロード」の因縁は続いていたように思えてならない。
