恐怖の報酬、トラウマの傷、そして「恐怖」
昨日、「恐怖症」というものについてちょっと触れました。
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この点に拍手でコメントいただき、ありがとうございました。一部につきましてはコメント欄で改めて公開させていただきました。
一度しくじると次が怖くなる。
そしてそれは恐怖症へと発展する、そんな考え方があります。
恐ろしかった体験、高いところでの、狭いところでのこと、先端に関して起きた怖かった体験が恐怖症として日常的に誘発されるようになるという考え方です。
私はあまりこの考え方をしません。
人間は嫌なことがあるとその恐怖体験や苦しい思いを記憶から追い出そうとします。
私はそれは「トラウマ」として区別したいと思っています。
恐怖症もトラウマにしても、どちらも日常的に惹起される感覚ですが、トラウマは過去の記憶の処理の仕方のような気がします。
それは見えにくく潜在的な場合もあります。
少年が年上の尾根遺産に弄ばれ、快楽のとりこになってしまったという体験、その記憶。
潜在的でも実は少年を傷つけている。
これがトラウマですw。
例はちょっと私の趣味に走りましたがw、これはまた次の機会にw。
例えば「高いところから落ちた」という幼年期の体験があります。
それ以降、高いところに行くと潜在的な記憶が呼び覚まされそうになり、それを消し去ろうと恐怖感で拒絶しようとする。
これは高いところが怖いのではなく、記憶が怖いと言えないでしょうか。
どちらかというとこういう場合は「トラウマ」とした方がいいような気がします。
一方で「高所恐怖症」というのはあります。
過去の記憶の扱いではなく、何度も続いた蓄積の結果である場合がそれだと思います。
なぜか高いところでの危ない経験を繰り返してきたこと。
「子供の頃、ジャングルジムから落ちた、怪我をし、親は激怒。
高い展望台から景色を見ていたら鳥が窓に突っ込んできた。血が飛び散ったガラス窓。
忘れ物を取りに行って急いで帰ろうとして通路を間違えていた。扉を開けたらそこは階段も何もないただの空中にポッカリと空いた扉。ドアノブにしがみつき危うく落ちかけた。
ちょっと台に登って写メを撮ろうとした、支えが折れるはずがないと思っていたのに、いきなりなぜか折れた。」
・・・(汗)
こんな風に高いところでの出来事が重なってゆくと、高所恐怖症になるのではないか。私はそんなことを考えています。
きっとそれぞれの出来事はそれほどの悪夢ではなかったかも知れません。
ご本人もそれぞれの記憶をしっかりと思い出せる。
でも「いつも高いところは不吉だ、危険だ」という連想になります。
まるでそれは条件反射のようです。体験の蓄積により恐怖感が植えつけられてしまう。
それを私は「恐怖症」ではないかと思うのです。
身近なこと、それが嫌なものになる。
警戒心や猜疑心、そうしたものが身近なことに向けられます。
トラウマと恐怖症を一緒にするのは間違いとは言えないでしょうが、以上のように、恐怖症というのは習慣的なもの、蓄積されたものと私は考えます。
それだけ経験値に基づくと言え、「道理に適うこと」とさえ言えなくもありません。
もっと言えば、他人から見れば「恐怖症」というのは、いつもどことなくクスリとしてしまうものがあります。救いがある。
何度も切り抜けてきた危機は、他人には幸運の証しにさえ見え、その人の長い人生が堅実で平穏な人生であり、安寧な人生であることを暗示しているように思えるからです。
恐怖症によって、危険を避けるひとつの知恵を獲得しているように見えるからです。
少なくとも「トラウマ」よりはいい。「恐怖症」というのは付き合いやすいものかも知れないと私は思うのです。
私がこんなことを言うのは、本当の「恐怖」という何かと、恐怖症というのを私は区別しておきたいからです。
私はある国で深い洞窟に入り込み、明かりのない暗闇を彷徨ったことがありました。
ライトがありませんでした。
一人でした。
音がなく空気が動かない世界で、私は発狂しそうになった。
冷や汗がとめどなく噴出し、心臓が止まりそうになるほど高鳴りました。
声が出ず、私はただその闇を手探りしようと這いつくばりました。
転ばないように手と足で四つん這いで這いつくばって、石のゴロゴロした感触を確認しながら私は坂になっているところ、地面の傾きを感じようとしました。
何か少しでも音が聞こえないか、耳を澄ませました。
壁のようなところを探しました。
怖いことなどない、何もないだけ、誰かいるわけでもない。
死にはしない、そう繰り返し、私は平静を取り戻そうとした。
しかし時間も分からなくなってゆきます、自分が気が狂いそうになってくるのが分かった。
その時、私は暗闇に何かを見た気がした。
私は突然に絶叫しました。自分でないものが叫んだような感覚でした。
それが私が一瞬に感じた恐怖でした。
それが何なのかは分からないけど、すべてから独立した存在、私自身の中からでもなく記憶でもなく、出来事でもないもの。
「恐怖」というのはあると私は思っています。
私が声を出したことで突然に無数のコウモリがどこからか飛び立ち、どこかへ行くのが空気の揺れで分かりました。
私はその方角へと四つん這いのまま走ってゆき、とうとう洞窟を出ることができました。
ひとさし指を折り、脚をくじいていました。
知らずにコウモリの群れの中にいたことで私は狂犬病の注射をしました。
恐怖そのものである何かを、私は今も信じています。
