二択はコインの裏表なのか
豆腐を買う。
☆
もめんと絹ごし。どちらも美味しい。正直、甲乙はつけがたい。
あまりこだわりはない。鍋にしてもどちらも使える。
冷奴でもどちらでもそれぞれ美味しい。
私はその時々の気分で食べています。
嫁は、絞ってオカラを山ほど捨てたりしないから木綿が得だと言いますが、手間がかかる絹ごしだって、その価値としては捨てたものではない。
「これを選ぶのはコインの裏表だな」と言ったら、嫁は「それは違うでしょ」と言った。
アタシはそんな気がする。
二択というのは確かに物事の「裏表」ではないけれど。
コーヒーか紅茶?
風呂と食事それともア・タ・シ? www(笑)。
二択のものを「コインの裏表」という言い方は間違いなんだろうか?
それは反対というわけでもない。反意語でもない。
ひとつのコインの両面、表と裏。
なんだか、「二択」というのは相対とも違うものだ。
それなら生と死はだって裏表だ。反対のことじゃない。
嘘と真実。憎しみと愛も。
それはコインの裏表のようなものだと思う。
二択だとしたら木綿か絹ごしだってそうだと言えないか?
相反するだけのものをコインの裏表と言えるだろうか。
目玉焼きにはソースか醤油、それは相反するものではないが、コインの裏表のように異なる食べ方の流儀だ。
ペペロンにするかカルボナーラか、ミートソースだってある。そうしたら二択ではない。
裏表どころではない。
でも豆腐は絹か木綿の二択だ。
正反対の好みとは言えないが、まるで違う二つの選択肢だ。
そしたら嫁は言った。
「だって焼き豆腐だってあるじゃん」
コジらせないようにしないと(笑)。
おそまつ
