隠れたいい店、地元のメシ処
これはもう、コロナよりちょっと前のお話かも知れません。
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たいていの土地には地元の人に愛される食堂や飲み屋があります。
旅をしてふらりと辿り着いた余所者が、人づてに聞けた時だけ立ち寄れるような、隠れた特別な場所というのがあるものです。
そこは人々が食事をしに来たり呑みに来たりする場所です。
少し寂しそうで、それでいていつも誰かしらお客さんがいて、美味しいものがいつも待っている場所です。
地元の海のもの、山のもの、手作りのもの、採ってきたもの。栽培したもの。
そして昔から地元にに伝えられてきた料理。
そんな温かで、誰もが癒される場所は、しかし人目から隠されています。
余所者には分からないようになぜかできている。そうなってしまうのです。
看板なんかが出してあっても、必ずと言っていいほどなんらかのアクシデントが起きたりします。
地元の酔客に蹴飛ばされたり、風なんかで倒れて壊れてしまったり、いつの間にか看板はなくなってしまう。
店主も、「どうせ近所の連中しか来やしないだろ」なんて、看板を出すことなんかすっかり諦めてしまう。
また、歳月とともに隣近所の建物の建て替えに取り残され、奥まった通りからはなかなか見えないような店になってゆきます。
そんな店主は毎日仕込みを淡々として、来た地元のお客の注文に黙々と料理を作ります。
おカミがやっているならそこにには亭主が不在、大将が切り盛りしていれば嫁さんはいない。
みんなが店主のヤモメ暮らしを心配してくれるのですが、ご本人は「気にしない」と、好きにのんびりと構えている。
出て行ってしまった子供もいたかも知れませんが、今は独りです。
なぜかそんな店は、たいていどこかしらに孤独が漂う店主がやっているものです。
そんな、何かが欠けているような感じの店だから、まるでお客が来ることがお店には必然のようなのです。
ピタリと地元の景色に馴染んでいる。
地元のお客、誰かが来ることで、店に足りないものが補われるような感じ。
そんな地元の店があります。
お客はまるで示し合わせたように、それぞれの時間にバラバラにやって来ます。
だから普段はあまりワイワイ・ガヤガヤと、店が賑やかになることはありません。
ただいつも、誰かしらがそこで食事をとっている。
そこそこ繁盛しているはずなのに、傍目にはなぜか寂しそうな感じがする店です。
地域社会の悲哀や憐憫、そんなものをひとりで背負い込んだような佇まい。地元の人なら誰もが知っている店です。
そんな店があります。
地元の人の好む味付けで、地元のものを出すお店。
こんな贅沢なお店を知らせないのはもったいない、なんて、思ったとしたら、それはきっと他所から来た人だから。
そこはまるで自宅の奥座敷みたいなところだから、あまり他所の人に踏み荒らされても困ります。
だから、「潰れても困るから」なんて、誰かしら気にかけて店に来てカネを落としてゆく。
そこはまるで地元の人にとっては故郷のようなもの、故郷を思い出す時に思い浮かぶメシ処です。
出て行った人間がふらりと帰ってきて、ホッとひと息つける場所。
そんな場所をみんなのために残しておいてやりたい。
そんな気遣いがその土地にはある。
ひっそりとしたメシ処、しかし美味さはお墨付き、そんなメシ処というのがたいていの土地にはあるものなのです。そして看板もなく隠されています。
ダラシのない人もいる。生真面目な人もいる。しくじった人も、頑張っている人も、なんとかこらえている人も、諦めている人もいます。
わずらった人も、苦しんでいる人も、困っている人も、穏やかな人もいる。
そんな人たちを見守るように、今日も寡黙な店主が静かに店を営業中です。
もし旅に通りかかったら、誰かに聞いてそっと訪れてみるといい。
GoTOなんてものとは違う旅の醍醐味があります。
いうこそよらっしゃい
