嫌な面を見たくないからと、赦すにあたわず
もともと、他人にとっては「人の不幸」というのは別にどうでもいいものとされてきました。
「人の不幸にいちいち首を突っ込まない」なんて、昭和の時代には普通のことでした。
そのどうでもいいはずのことが、最近は「人の不幸は蜜の味」とばかりに群がる傾向があるなんて指摘されています。
「まるで何かに飢えているようだ」、と。
しかしその「不幸」というのは、誰か一般人の「悲劇」では実はありません。
タレントや政治家、特定の勢力の人々の「不始末」ではないでしょうか。
そうしてメディアからは「世間は何か常に生贄を探している感じがする」、とあたかも大衆から擁護するかのような発言が出るのです。
常に誰かの責任だと、大騒ぎをする連中が言うのです。
そうして、「今は情報に溺れる人々がいる」、とも言います。
時には嘘の情報を流したり、都合が悪いことは隠すような連中が言うのです。
「世間は狂ったようにタレントを叩く、タレントにも人権がある。怒りをぶつけるばかりではないか」、と。
常に怒りをぶつけて世間を煽ってきた連中が言うのです。
普通の市民は言い訳をする場もないし、事件が取り上げられることもありません。
誹謗中傷だの叩かれたとしても、どこにもそんな場はないのです。
どうしてこんな、まるで言い訳のようなことがタレントやメディアの側から許されるのか。
遺族が「実名を流さないでくれ」としたテロ被害者の名前は暴力的に無断で晒され、一方で、メディアへの露出を商売にするタレントへのネットの攻撃は「法的対応が必要」なのでしょうか。
今の世はまるで意味がない主張が公然とまかり通っています。
まるで、都合よく世間を操作しようとするメディア側から市民へ攻撃が仕掛けられているようです。
人の不倫やしくじりなど、どうでもよいだろうとは思います。
しかし、今はそういうことがあるにつけ、これまでケジメがなかったことにみなが気が付き、みなが愕然としている。
だから不満が高じて手近なところ、タレントごときにと叩きが激しくなります。
許されざる者を世間はもう放置しない。
大衆はケジメを要求し、吊るし上げるのです。
ベッキーとか岡村とか、ノリピーとか、女子プロレスラーとか、お笑いタレントとか、レイプとか、沢山の不倫、嘘、開き直り、自作自演、石田純一w。
そんなゴミどもをメディアは捨てられない理由でもあるのか。
徹底して邪悪さを暴き、駆逐しようとするのが今の社会の流れです。
今こそが正義のピークなのです。
情報社会のピークとで、二つのピークw。
これは正しいリンチということかも知れません。
なにしろ大衆の方には批判する理由があるんだからw。
「リンチ」という言葉の語源は「チャールズリンチ大佐」という人です。
こと芸能ネタに多い「叩き」ですが、
デビット・リンチが語源ではありませんwww。
人々の気持ちはよく分かります。
世の不正、不埒なことばかり。育ちの悪い連中が悪目立ちをしています。
クズは目の前から消えて欲しい。それがのさばっている。
わかりますww。
ほとぼりが冷めればなんて、影で舌を出して笑ってるのがいます。
そんな裏の顔など許すべきではない。世間に露出する資格などない。
追放したらいいのです。
誰も困らない。
いいことです。 私は大いにやるといいと思います。
透明性の高い社会へ覚悟をもって進むのです。
中途半端はよくありません。
間違ったことどころか、育ちの悪い連中の露出を許してはいけません。和めない。
気に障ったら徹底的に糾弾すべし。それは正義なのです。
石田治部少輔光成
かつて、こんなことはあまりありませんでした。
情報化、ネットの恩恵です。
かつて、人の不始末はむしろ次は自分と思い、人々は他人の不始末を見ないようにしてきました。
逆にそういうことが高じてしまい、人の不幸には世間からの同情は集まらなくなり、個人的なことと捨て置かれることになりました。
「個人の悲劇」など、たいていは「他人事」と、無視されてしまったものです。
どんな理不尽な悲劇ではあっても救いはありませんでした。
これは社会の無責任だったと言えます。
拉致事件、あおり事故、ストーカー殺人、イジメ自殺、育児放棄遺棄、なぜ我々が他人の悲劇を我がこととして考えられなかったのか。
そしてその一方で、なぜ特定の連中が大声で騒いで我こそが大事とばかり、つまらぬことで目立とうとしてきました。
連中の主張が検証もなしに一方的に取り沙汰され、大きな顔をしてきました。大事なことがそのために見えなくなった。
「現実は何も大多数の者、声の大きな者のためばかりにあるわけでもない。
社会は変革されるべきであり、少数派というのは常にいずれ自分がそうなる可能性がある。
少数派をいたずらに放擲すべきではない。」
そうですかw。もちろんその通りだ。
そうでしょうともw。
ならばタレントなど、社会性の高い不始末は決して見過ごしにされるべきではなかった。
韓国人の教科書にどれだけ異常なこと、日本を愚弄するようなことが書いてあるのか、相互に検証すべきだった。
この国に唾して利益を得ようともがく連中を少数派とは言わない。
外国人はその国では「部外者」です。
都合よく自分だけに有利なように、事実を歪める連中に声を出させることなど許すべきではなかった。
薄っぺらい正義感があった。それがかつては一億総中流社会などと揶揄された。
我々は覚悟が足りなかったのです。
今の日本人は惑っている。
自分がどの位置にいるかがわからない。
歪んだものに立ち向かう方法、みんなそれを探そうとしています。
我が国にとって大事なものは何か。 それを見失ってはいまいか、と。
日本のことや他人のこと、家族のこと、日本と言う国のこと。みんながそのことを忘れかけている。
気がついたらテレビの向こうは在日外国人、韓国系ばかりになり、日本を悪し様にいう嘘つきばかりになっていた。
日本をヘイトした侮辱活動を「芸術」と偽装し、これを公金を使ってやらかした愛知県知事がいます。
その韓国系愛知県知事のリコール運動をしたら「署名なんかしたら住所がバレて晒されるのにねぇ」なんて、そんなデマを飛ばして妨害している勢力がいる。
その醜悪、あまりに悪質な性根、その裏の顔に立ち向かわないのか。
安倍辞任を求めるデモは報道されても、こうしたおかしなことは報道もされない。
取材記者が仕事中にまるで反日活動家のように振る舞い、「日本語が分かりますか」と言われたから侮辱だと騒いでいる。
たかだか記者の分際で侮辱されたなんて、報道のために質問したのではないのか。
「来日した外国人が日本語がタドタドしい」と、醜悪な番組を作っていたメディア側がよくも言えることだ。
怒ることもできない腑抜けではいけない。
こんな不逞な不法滞在移民らの横暴、メディアの専横を指弾しないで、惑っていてどうするでしょう。
不倫がある、着服がある、嘘をついたりする、その不正義を見ないふりしてきました。
人というのは罪深いから。
人の罪深さを知っている人々ほど、人の嫌な面は見たくないから。
しかし、だからと言って、赦すことなど全く必要ない。
不愉快というだけで叩き追い詰め、駆逐していい。
気持ちの悪い奴と思うタレントは追い込んでいい。
なにしろ取材を公然と放り出して「日本語が喋れるかと侮辱を受けた」なんてやっているのがメディアなんだから。
我々もメディアからの侮辱に対抗していい。
醜悪なタレントを露出させるのは私たちへの侮辱です。
三十にして勃つ、四十にして惑わず。
五十にして天命を知り、六十にして耳従う。
七十にして己の欲するに従えども、道を違えず。
(追加)
そして、八十にして振り返り人を導こうとするも、
九十にして生に倦み、百にして鬼となる。
おそまつ
