文書作成の革新、それは我が国に何をもたらしたのか
週末はゆっくりしておりました。
いよいよ九月になりもう秋です。
少しは涼しくなってくれるとありがたいものです。いずれこののぼせた暑さを忘れればすぐに夏が恋しくなるかも知れませんがw。
今晩は雨も降り、夕方になってから涼しく過ごしやすい。
日本の社会はその文書作成という面において、国際化を意識して縦書きから横書きへ移行しようとし、過渡期を経ていました。
その頃はまだ横書きでノロノロとブロック体で文書が作られていた時代でしたから、言葉巧みな人々が「能力がある人々」とされた時代でした。
言葉が文章よりも早かった時代だったらかです。
よくも悪くも、見切り発車や早合点など、場当たり的なことが社会で通用した時代でした。
そうしてこの縦書きから横書きへの過渡期を経て、いきなりワープロとコンピューターが登場します。
スピード感のある文書コミュニケーションの時代がいきなり我が国に訪れたのでした。
ワープロ・パソコンと、信じられないほどの大きな変革であったのだと思います。
それは現在、我々をとりまく文書を見れば明らかです。
昔の法廷資料や議事録などはほとんどが手書きです。膨大な裁判記録が全て手書きでされていたなど、とても信じられなくなります。
ワープロ・パソコンの登場で我が国のコミュニケーションで文書が活用されることは確実にに多くなりましたし、それは個人の責任を強くさせてきました。
そのインパクトはまだ続いているのでしょうか。
なにしろ、とうとう「ハンコ文化からの脱却」まで言われる始末なのですから、まだまだ透明性の高くなる余地はあると言えるかも知れません。
我が国が「訴訟社会」になったと、まだ十分に言える状態とも言えません。
私はこの変革で、我が国にで飛躍があったという痕跡、社会革新が感じられるものがあまりないことがとても不思議でなりません。
新しい潮流に抵抗した勢力のため、目だった社会の変革が阻害されたのでしょうか?
聞けば今でも、このネット時代になってさえ、まだ原稿を手書きで書いていると大威張りの御仁がいるといいます。
自称文豪ww。
化石どころか、どうなのでしょうか。
それで推敲というものが果たして出来ているのかどうか。
作家先生というスタイルを自作自演で演出するためにやっているのではないか、そんなことさえ疑わせるほどです。
そして一方では、この国にはまだ言葉を弄するだけの連中がいることも事実です。
コメンテーター、タレント風情らが、いかにもその場だけの軽く口をきいてマスメディアを賑わせていることも変わりません。
その言葉は場当たり的に出てきた言葉でしかありません。
整理され、何度も推敲された文章ではない。
口八丁手八丁の、無責任な言論がまだ横行しているように見えます。
彼らが居座り続けるあまり、いまだに文書作成の変革が現実に影響を及ぼしていないということなのでしょうか?
現在で実現されている技術革新は様々です。
ネットもあります、OCR、全てをデジタル化することもいいでしょう。
RPAにしてもAIにしても確かに大きな変革です。
それは世界中が享受している技術進化ICTの恩恵だと言えます。
だがしかし、こと「文書作成」ということに限れば、日本に場合にはもっと大きな跳躍、飛躍があったはずなのです。
それを取り巻くのがICTであれば、もっと我々日本人はこれを活かして変革を実現することができるはずです。
昭和から高度成長期を経てバブルぐらいまでの過渡期から、その時期に較べればこれまでの十倍、数十倍のスピードで私たちは文書作成ができるようになりました。
人に整理した確実な意思伝達ができるようになりました。
慎重に推敲したモノが、迅速に伝えられるようになりました。
複雑な事実が、記録として誰でも読みやすいよう、すぐ残せるようになったのです。
そういう日本語の文書作成能力に飛躍があったというのに、なぜか目に見えた変革があまりないということが私には不思議でなりません。
もしかして、日本のコミュニケーションの革新はまだ途中なのかも知れない。
それだけなのかも知れません。
おそまつ
