日本の文書表現の変化で苦労した世代
映画なんかを観ても分かることですが欧米には古い時代からタイプライターがありました。
パチパチとタイプを打つ作家やジャーナリスト、これから殺される秘書なんかが忙しくタイプを打つシーンが当然のようににあったりしますw。
古いモノクロ映画でもあるのですから、当然のような道具だったのでしょう。
タイプライターは古い時代からあるものです。
今更ながら、そのことを考えると驚きます。
タイプライターを使えば、慣れれば速いスピードで文字、文章を書ける。
それは猛烈なスピードです。それは書くよりもぜんぜん早い。
思考がそのまま文字になる。
それこそ思いついた思考や発想をそのまま文章にすることができるのです。
タイプライターはそれだけの革新ではないか、というわけです。
しかし、グーテンベルグの印刷技術の革新についてはよく言われることですが、タイプライターで文章作成が飛躍的に早くなったこと、これについてはあまり言われない気がするのです。
その理由ははっきりとは分かりませんww。
ただその前から、アルファベットににのは筆記体というのものがあったということはあるかも知れません。
筆記体というのは、いわば、「ひと筆書き」のようにして連続して文字をつなげてしまい、書いてゆく記述法。
それ自体は書くのは早いのです。
ちゃんと読みやすいように心がければ、早く書いてもちゃんと読める文章が早く書けます。
だから、もともと欧米文字ならばもともと文章が早く書けたということかも知れません。
だから、手書きの筆記体からタイプライターへの移行にそれほどのスピードの飛躍があったわけではなく、技術革新と考えられなかったということなのでしょうか。
我々日本人が、筆記体で英文の手紙などを書いてい送ると、たいていの欧米人に驚かれるものです。
今は欧米人でも筆記体で文章を書く人は少なくなりました。
もともと欧米のアルファベットは横書きを旨とした文字です。
だから少し崩せば続けることができ、なめらかで続けてスラスラと文章が書けます。
しかしその筆記体を書く人というのが、欧米人でも今は少なくなったのです。
今はほとんどの人がブロック体でものを書きます。
ブロック体は崩れていず、ひとつひとつのアルファベットを正確に書く。
ならば移民でも誰でも、これを間違えるということはありません。
教育の変化もあるでしょうしタイプライターができたということもあるでしょう。
だから、今では手書きで文章を書くというと欧米人でもいちいちアルファベットをひとつずつ楷書するようにして書きます。
タイプライターと同じようにしてブロック体で書くわけです。
だから、もちろんそのスピードは遅くなります。
そういう英語本来の書き方を日本人がやるというのは、ちょっとは驚きなのでしょう。
私はドイツの女性に恋をして、その時、恋文を筆記体で書いたことがあります。
そのフラれた返事もまた、筆記体で返してくれたものでした。しかし今から思い出すと向こうには多少のムリがあったのかも知れません。
フラれる方の東洋人が筆記体で書いてきたというのに、欧米人がブロック体ではしょうがないだろうと、ちょっと頑張ったのかも知れないw。
当時はまだギムナジウムなどの教育課程がしっかりしていて、ちゃんと子供の頃から筆記体の書き取りをさせていたはずです。
しかし書き取りのテストや課題というものがあるくらいでしたから、苦労した人もいたはずです。
彼女の筆記体は美しく、今、見返してみるとやはり頑張ったのかも知れないと思わせるものがあります(笑)。
それから私はイタリア娘と恋に落ちて、付き合うようになりました。
その時、私は自分の名前を漢字で書いてあげたり、表音式に変換して相手の名前を漢字やらひらがな、カタカナに書いて見せてあげたものです。
オリエンタルへの驚きに手放しで喜ぶ彼女は、それを見ていて、ふと言ったものです。
「とても美しい文字に見えるけど、文章を書くときは時間がかからない?」、と。
「その通りだ」と、私は請合いました。
しかし、本当は違うのだと思います。
それはあくまで説明のための方便だったに過ぎないでしょう。
なにしろ縦書きの文章など見たこともなく、理屈などまるで分からなかったでしょう。
右から左に文字を連ねてゆくアラビア文字すらどうかというのに、縦書きというのは訳も分からず、きっと説明は困難だと思ったからそんな風に私は答えたのでした。
日本語は、縦書きがその文字の本来でした。
原稿用紙は縦書きだったし、縦に書けば英文の筆記体のように滑らかに、続けて次の文字へと続けられました。
早く文章が書けた。
横書きでも書いたことはありましたが、文字の性質として縦書きが本来であることは間違いがありません。
「書き順」というのが日本語にとって大事なのは、実はそのためです。
まあ、このところは、特定勢力がいるから大きな声で言えないでしょうけれどもw。
ところが、いつからか日本語の文章は横書きが中心になってゆきます。
私が子供の頃にはすでに世の中は横書きが中心でした。
学校での作文はまだ縦書きでしたが、試験の答案や日記、世の中は横書きが中心になっていきました。
「世界に合わせる」という、その必要を感じたのかも知れません。とにかく、世の中には横書きが氾濫するようになってゆきました。
先ほどのイタリア娘ではありませんが、どうしてこの国は縦書きなることをしているのか、その説明も難しいでしょう。つまり国際的基準ということでは無理があったと官僚が考えたのかも知れません。
縦書きというのは、表記法や文字の差という次元ではありません。
文字を読むのがタテなのですから(笑)。
ともかく、日本の文章というものは、戦後、横書きへとなし崩し的に変化をしていったのです。
すると、日本語の文字としては本来が縦書き仕様のものですから、書くのはどうしてもぐずぐずと遅くなってしまうことになりました。
それは大変な労力を必要としたはずです。
この過渡期の出来事について、明快に指摘する人を私は知りません。
あえてこれを文化人類学的に言えば、明らかにこの過程で不利を受けた世代というのがはいたのだと思います。
もしかして、それが今の老人たち、団塊世代らに強い不利になったとすれば、この国の変革を嫌い、時代の潮流に抗がおうとし続ける人がいる、その気持ちも分からなくもありません。
そして、日本のビジネスにおけるホワイトカラーの非効率性の根源とは、昭和の、いわば「ガイダンスなき横書き化」を源流としているのかも知れないと、ふと思ったりするのでした。
しかし、人を呪えば穴二つ
おそまつ
