食事に保守的な人々
食事に保守的な人というのは日本人でもタマにいるものです。
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とても頑固で、食べつけないものには手を出しません。
珍しいからと手をつけたりはしないものです。
彼らは「これ美味しいよ」、そういう呼びかけにあまり応じてくれません。
珍しいもの、珍品、珍味、彼らはそれを喜ばないのです。
ただそれでも、これは価値がある、とても高いとまで言うと、たいていの人なら試してみるのが普通です。
そういう社会的な評価が背中を押すことがあります。
一方、世界には色んな文化があります。
その中で、知らないものについて頑として受け付けない人々というのはいます。
どんなに価値があるとしても、ダイヤモンドぐらい評価されている、そんな説明をしても決して試そうとしない人、新しいものに決してなびかない人たちがいます。
これを私は「食事に保守的な人々」なのではないか、そう考えていました。
それは考えてみれば絶滅しやすい文化ということになります。
どんなに困ってもお腹が空いても、知らないものを決して食べようとしないのですから。
少数民族や森の中で暮らす文明社会とつながりのない人たち。
彼らはだからこそ「地球環境変化」の被害者なのでしょう。
これまで採れていたものが採れなくなったり、環境が変化して食べられるものがなくなっているのです。
彼らに知恵がないわけではありません。
人間であり集団として暮らしている以上、生きる能力、考える能力はあります。
彼らは作物の栽培を知っており、習慣などの文化も持っています。
彼らがかつて知らないものを食べなかった時、それは長らく彼らの命を救ってきました。
外からやってくるものを口にしなかったため、命が危険に晒されることはありませんでした。
今はそれが逆に作用しています。
彼らの強い意識ゆえに彼らは飢えていきます。
江戸の世でも飢饉が起きました。しかし食べるものはあったのです。
ただ年貢の義務があり、移動には制限がありました。
自分たちで自足自給の生活をすることが許されるわけもありません。秩序への挑戦とみなされたことでしょう。
私たちは社会生活の中で餓死するのです。
味噌汁を大量にもらって困ったことがあります。
なんでも、日本人の客が置いていったというのでした。
きっと日本の文化である味噌と味噌汁を誇示したかったのでしょう、彼らはそれを置き土産にしていったのでした。
でも現地人には迷惑だったようで、誰も手をつけませんでした。
どうしたわけか、外国人の私のところに回ってきた。
好きだろうから食ってみせろというわけです。私は固辞しました。
逆の意味ですが私からしても迷惑な話でしたww。
なにしろすっかりエスニック、日本とは全く違う文化を堪能して彼らに馴染んでいたのですから、日本のインスタント味噌汁なんてものは余計だった。
しかし捨てるに捨てられない。私のクニのものじゃないかと言う。
しかも誰を呼んでも、誰に勧めても、みんな嫌な顔をして頑として食べようとしない。
保守的かどうかというのは、共同体の外に対する意識として現れるものです。
そこで私が味噌汁を飲むわけにはゆきませんでした。
日本文化に誇りがあるのはいいのですが、この日本人は間違っていた気がします。
文化は誇示するためにあるのではない。
彼らにはインスタント味噌汁が外のモノと区別されてしまうのが分からなかった。
どうせなら日本人として中韓のおかしさを置き土産にしたらよかったのにw。
要するに小市民が多いということです。
途上国では日本人はつい日本を誇示してしまう。
海外では日本人なら、少なくとも日本人なら誰でも、日の丸を背負うことになります。周囲からは必ずそういう目で見られます。
私たちにその責任があることだけは私は忘れるべきではないと思っています。
コロナ禍なのににどこへ出かけた撒き散らした、国内だけでもそう言うのなら、他の国ならなおさらです。
結局、私はみんなの前でその味噌汁の匂いを嗅いでみせ、これは違う臭いだ、傷んでいると嘘を言ってすっかり捨ててしまいました。
彼らの側に立つのに、そんなものは邪魔になるだけだったのです。
おそまつ
