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変動、バイオリズムを言わなくなった理由

 物事には「変動」というものがあります。

 循環やサイクルに従うものに見られる変化です。
 それはグラスの氷が溶けるような、後戻りのできない変化とは違う。

 一度振れたものは必ず戻ってくる。

 値動き、価格、気温、湿度、体重、体温、血圧・・・そして私たちの感情の起伏。
 色んなものが上下します。
 それぞれの水準や数値にしているもの、そのレベルが変化する。


 「感情」というものにしてもそうで、ちゃんと元に戻ってこないといけません。

 激しい怒りがいつまでも戻らなかったり、鬱屈した気分が元に戻らなくなってしまうと、「病気」とさえ言えるような状態になることもあります。

 「いずれ気分は元に戻ってくるものだ」と、もし信じられるのであれば、まだなんとかなる。






 昨日のお話をしていてふと思った。

 それはここ近年、「バイオリズム」という話をほとんど聞かなくなったということ。
 不思議とそんな話を聞かなくなりました。

 それこそ、これは昭和の時代の振り返りのこと。
 昔は「バイオリズム」というのが随分と気にされていたものです。

 「バイオ」とつくのですから、それは生体的なリズムのこと。
 私たち自身の体のリズムのことです。


 毎日の「体調」だけでなく、精神的なことも含め、私たち人間には「波」というものがあるのだという概念。

 それは私たちのリズム。
 我々人間には好調不調の波というのがあって、それを知ろう、知っておけばしくじりは少ない。
 うまく我と我が身、心と付き合ってゆこう、そんな考え方が広まったものでした。


 昔はそんな風に、私たちは自分を知ろうと色んなツールを探していたものです。

 一方、今の私たちはコミュニケーションのツールばかり求めているような気がします。
 それはどうなのか。






 昔に流行した「バイオリズム」の波は、オシログラフのようにして描かれました。
 横軸は時間です。

 感情的な波、肉体的な波、頭脳的な波、社交・協調性の波。それらが独立に描かれることが多かった。

 そして、それは波ですから、それぞれの高い時、低い時があって、いくつかの波が重なって同時に高くなる時もあります。

 そこで例えば、その複数の波が同時に高くなった時、例えば恋のアプローチをしてみれば告白に成功しやすいとか、投資するにはよい日だとか、会議でのプレゼンテーションに最適な日だとか、暮らしや日常の目安にしたものでした。


 私たちは「体調」なんてひとことで言いますが、それは感情による影響も含まれています。

 絶望した時にカラダがだるく感じるのは感情からですし、カラダがフワフワと浮いた感じで落ち着かないのは気持ちが高揚しているためだったりします。

 ただ健康でどこも痛くなけりゃいいというわけでもない。
 やる気が出たり前向きになれたり、そんな「体調」を含め、私たちは自分を気にする。




 今、こういうことはあまり注目されなくなった気がします。

 情報化とシステム化が深まり、DXなんてことさえ言われる昨今。
 今、私たちは判断のための材料の実に多くを外部に求めています。
 それが可能な世の中になりました。

 環境や社会、そしてガバナンス。
 ESGということです。

 
 しかしその外部の情報、データを見つめる私たちはどうなのでしょう。
 私たちは正しくそれを判断できているでしょうか。

 自分というものが制御できているのでしょうか。
 自分は大丈夫、だから、外部ばかりを気にしていても問題ないのでしょうか。

 しかし「情報」というのは私自身の中にもあるものです。


 だから過ぎた日々を振り返り、改めて思うということも大事だと私は思います。
 訳の分からない何かが自分の中にあって、それが判断に影響を与えるのだという前提はあっていいのではないでしょうか。





 確かに「バイオリズム」なんて、インチキなものだったかも知れません。

 振幅する振れ幅がいつまでも同じだったり、そのカーブの形がいつまでも規則性と法則性で動いて予測できるわけもありません。

 天体の動きのように、ひとつの曲線は隣の曲線に影響を受け、お互いに相互作用もしているはずです。


 昭和には「バイオリズム判定機」みたいな製品があって、生年月日や血液型、性別を入力すると現在の日付の直近のバイオリズムが見れる、そんなものがありました。

「王様のアイディア」とかっ、でっ!www

 ああいうwww、都会ならではの冗談のような製品、意味不明のガジェットというのは、今ではデジタルになり、スマホのアプリになったり、電子機器に引き継がれていますw。


 しかし、「自分を知ろう」ということ、内なる声に耳を傾けようとする姿勢は決して間違ってはいないと思います。

 意味もなくうろたえてしまったり、激高してしまったり、あるいは号泣してしまったり。
 私たちの感情の起伏は時にとまどうほどに揺れ動きます。

 いくらデジタル社会になったと言っても、私たち自身の中にあるもの全てを捉え切れているわけでもない。

 だいたい、誰でも同じ結論が出るというならそれはAIにでもやらせればよいはずです。
 そうでないものがあるから私たちはしくじったり間違える。


 

 結局、こうした、私たちが自分のリズムにあまり目を向けなくなった原因は、私たちの生活のソーシャル化がデジタルによって加速したということがあると私は思います。

 ITは人間の活動を拡張しました。
 マクルーハンという人がそんな議論に先鞭をつけました。

 ITによって私たちはお互いに見て見られる領域が大きく拡大しました。

 こうしてブログを見てもらうことも、LINEで常につながっていることも、ツイッターで見知らぬ者どうしが呟いた内容で瞬時につながることもそうです。

 それは私たちの世界、私たちの存在を拡張させました。
 それがソーシャルということです。


 私たちは個人的なことを勝手に話しているつもりでも、ソーシャルな視線があり突然に炎上したりww、非難を浴びたりもするようになりました。

 そうした批判や、それどころか中傷にさえ立ち向かう覚悟が今や必要です
 そして、そのことが気になってしまい、私たちは自分を見つめることを置き忘れてはいまいか。

 ITで個人の存在がむやみに拡張されただけに終っているなら、それは個人へのプレッシャーが増えただけのことではないか。

 それに耐えるには自分が必要なのであって、人に担がれる自分ではない!

・・・私は逃げない!www  しかし誰も聞いてない!ww(笑)






 今、新卒の採用試験では筆記よりも面接が重視されていると聞きます。

 昔は筆記で学歴通りの知識があるかが試され、合格すれば採用となりました。面接は顔見世的なもので、形式的なものに過ぎませんでした。


 今はコミュニケーション能力が大事ということで、むしろ面接が重要視されると言います。

 ところがうまく自分のことを話せない人、アピールが苦手な人、口下手な人というのもいます。
 軽口を言えない。深く考えてしまう人もいる。


 そのため、能力はあるのに評価してもらえず、就活に失敗してがっかりし、ひきこもってしまう、そんな話もあると聞きます。
 
 そうして、そのために就活のカウンセリングを受け、適当に質問に答えられるような見栄えばかりが追及され、会社は無能ばかり揃えてしまうのでは本末転倒ですw。


 社会でズルいやり方、小ざかしさばかりが幅を利かせても何のメリットもない。
 まあ、これは日本の「人事」というものの罪でもあるのでしょうけれども。

 まず自分あっての話。
 「ソーシャル」という言葉の意味をもう少し深く考えたいものです。



あせいちょうごりがとうございました


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テーマ : 伝えたいこと
ジャンル : 日記

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私という人間は何色だろう

 「自分のカラーはどんな色か」
 そんなことを考えています。

 自分を知るのは難しい。
 だから象徴になることはないか、よすがになるものから考えようとする。

 漠然としたものでしかありませんが、人の色ってきっとあるのだと思います。
 もちろん共産党を「アカ」って言うのとはちょっと違うw(笑)。


 何も、それはその人が身につけているものでもない。
 自分自身の内面に抗って拒絶し、そのカラーを嫌ったり身につけなかったりもするでしょうし、好みの色がご自分のカラーでなかったりもするでしょう。

 自分とはまるで反対のカラーをわざわざ選んだりすることもあります。
 だからこれは概念に過ぎません。

 なんだか中二病のようですがw、そんなお年頃です(笑)。




 人のカラー。
 それは青だったり、黄色だったり、赤だったりします。


・情熱の赤。
 前向きですが思い込みやすく、そして他人とうまく理解し合うことができない。
 自分の価値感中心で目標を持ち、強い。しかし先のことはあまり考えません。

欲求の黄色。
 移り気で散漫。しかし欲しいものは必ず手に入れる快楽主義。
 満たされる欲というのがあって生き生きとしている。冷静でもあり儲かるタイプ。

穏やかな緑。
 静かな気持ちで穏やか。何に対しても優しさを持てる。思慮深い人間性。
 人の批判はせず、何事も状況次第。対応力がある。

透明さの水色、青、ブルー。
 できるだけ自分を控え目にして世間的な評価を追求する。立場のある人。正義。
 澄み切った自分でありたいと願うが裏もある。協調性があり社交的で常識的な人。

・ゴールド。
 栄光。賞賛。虚飾。傲慢。そして不安。
 ホンモノの、写真には写らないほどのゴールドの色をした人はあまりいない。

・黒。
 黒は色ではない。絶望、後悔、投げやり。多面性。
 何かに隠れ無難にやり過ごせる。世渡り上手。成熟した大人。

・・・w






 色は光の加減で見え方が違います。
 それは陽射しにも影にも影響され、私たちの目には変化するものとして映る。
 「色合い」は変わるものです。

 我々人間も、世間的なこと、年齢的なこと、立場や性別、色んな「陽射し」によってそのカラーも変わってゆくのでしょう。


 何も「言葉のアヤ」というだけでもありません。
 私たちはなぜか色というものに人の印象を重ねるものです。
 カラーコーディネートは大事ということになりますw。

 それに、だから「印象派」なんて言ったりするんでしょうけど(笑)。

 時間とともに変化するものを捉えたり、光や影というものを全体で捉える。
 漠然と、全体を掴むということ。

 「木を見て森を見ず」なんて言いますが、森全体を見ること。それは見る人の目線次第でもあります。
 あくまで見ている私による「印象」でしかありません。
 他の人と一致しているわけではありません。

 だから、人のカラーについての私の見方が正しいかどうかも言えない。


 ただ、印象派の絵を見ると「絵でしか表現できないものがある」ということ、それは強く感じることです。




 私はやはり自分のカラーは赤なんだと思う。

 そして、その赤い色に暗い影が射し続けているのかも知れません。
 なかなか晴れ間の兆候はない。

 いつまでその色でいるのか。
 他の絵の具と混ぜることはできないのか。

 家内が、その混ぜることの出来る絵の具かも知れません。
 だから大事にしなくてはいけないと改めて思った。


 絶望というものが分からなかった。
 涙が枯れているわけではなかったのに。

 もうおしまいだと、匙を投げることもないまま、ただ最後まで坂道を転げてゆく人間。
 気が付いたら、やはり泣くこともなく、転げ回っている。

 私という人間は刹那的で破滅的だと、異性からそんな評価をもらったこともあります。


 やはり自分はダメな人間だと私は思う。
 やるべきことが目の前になければ、私には何もない。






 人に精神的ストレスがかかっているかどうか。
 それはサーモグラフで見ることも出来ます。

 人間はストレスがかかると体の中心に向けて熱がこもると言われているからです。

 首筋や指先が冷たくなる。
 それはサーモグラフで見ることもできます。
 サーモグラフもまた、色で温度分布を表したものです。

 コロナであちこちにサーモグラフのようなものが設置されていますから、指先などを測って自分のストレスを調べてみることもできるかも知れません。


 ちょっと前は、そんな商品もありました。同じ発想でストレスを計れると、グッズが売られていました。

 よく、「手が温かい人は心が冷たい」なんて言われもしたものです。
 占いの好きな女子などはすぐに飛びついて、握手をしてみて手が温かいと猜疑の眼差しを向けたりもしたw。

 落ち着いていて冷静で、気持ちが穏やかだからストレスがない。
 内側に温度を溜め込む必要がない。
 体の内部を温めて危機に備えるというストレス反応がありません。

 だから手が温かいというわけですが、それが「どんなことにも動じない冷酷さ」につながるとされて「心が冷たい」などとされたのでしょう。





 でも、「心」なんて、最近はこそばゆくてあまりクチにしないかも知れませんww。

 世間が曖昧さを許さなくなったのか、人の心などに関心がなくなったのか、あまり心なんて最近は言われることはないように思います。


 しかし、人間から余計なものを取り除いてゆき、最後まで残ったもので「価値」を測ろうとすればやはり「心」ということになるのではないか。

 外見、容貌、体格、姿勢。服装から装飾品、社会的地位、経済力、思考、主義信条、これらはみな比較されうるものです。
 無人の孤島ではそれらはまるで意味をなさない。

 最後に残った人の価値は心なのではないか。
 昔はよくそんな感じで言われたものです。


 ではその「心」とはアタマ、すなわち脳にあるのか、胸にあるのか、腹にあるのか、それとも全身か、神経か、、、。

 それもはっきりしません。もどかしいものがあります・・・。


 コロナは変異株の感染拡大という局面を迎え、若くても誰でも、生命が危険に晒されるリスクがある。そういう局面にあるのだと私は思っています。

 自分で考え、判断してゆくしかない。
 それは自分の「心」に聞いてみるしかありません。
 
 とりとめない話になりました。


おそまつ




 「印象派」と言えば、ゴッホもその一角を占める画家だと思うのですが、随分昔のこと、アルルという小さな町で、私は彼がかつて下宿していたのと同じ建物に泊まったことがあります。

 アルルは、ゴッホの友人のゴーギャンと画家村みたいに暮らす構想が挫折してしまった町です。確か彼が入院した精神病院もその町にあったはずです。
 

 私が泊まったのは彼の絵にもなっている下宿部屋の建物でした。
 座るところが籐で編んである椅子とベッドの置かれた板張りの小さな部屋の絵です。
 あの絵と寸分違わない部屋が残っていました。


 その頃はろくに観光客などいず、アルルと言えばコロッセウムや野外劇場などローマ時代の遺跡の方がどちらかと言えば有名な町でした。

 一階がBarになっているその建物は、上を旅行者に貸して安ホテルを営業していました。
 建物自体は石造りでしたが、内部は木のフロアー、階段も木でした。


 建物の上階の方の階段で登ったところ、最上階かその下あたりにひとつ部屋があって、ゴッホが泊まっていたという触れ込みでした。

 入り口に境界ヒモが張ってあり、廊下の外から見えるようゴッホの部屋が公開されていました。
 誰も見に来ることがない寂れたような、天井の低い狭い部屋で、当時のままか再現したのか、静かに公開されていました。


 私はその丁度真下の同じように粗末な部屋に泊まりました。
 エレベーターがないので上階は安かったのです。

 スーパーでラビオリの缶詰を買って、それを部屋の湯で温めてワインと一緒に食ったりした。

 小さな町なので夜は早く、なんとも退屈な町でした。

 町へ出かける前や、昼にラビオリを持ち帰って温めている時、私は木のミシミシときしむ階段を踏んで上に行ってみて、何度かそのゴッホの部屋を眺めてみました。


 シンとして、標本のように展示されているその部屋は外から陽がよく射し込んで、動くものもないのにホコリが陽に当たって漂っているのがよく見えた。

 部屋を見ていると、意外と幸福な人ではなかったかと私は思った。
 色々とおかしなところのあったヴァン・ゴッホ(普通はゴーゴと発音されます)ですが、陽の当たるその部屋で彼が寛いでいたというのは分かった。

 私は「おかしい」と人に言われることの多い人間ですが、彼は私とは違ったように感じたものです。

 
 あの部屋を思い出して振り返ってみると、ゴッホという人は黄色と青が混じったカラーだったように思えます。
 あくまで、なんとなくの印象ですがw。


再びおそまつ



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