天気予報の常識を疑ってみる
今日は強い風が吹いてました。
ちょっと不安になった。
子供は風の子、確かに子供の頃は風なんかへいちゃらでした。
風が吹くのはむしろ楽しかった。
若い頃だって風なんて平気だった。
その昔、寒い厳寒の季節、深夜の高速道路に突っ立って、誘導ライトを振り回すバイトをしたことがあります。
強い風は高い高速道路ではなおさら強くなっていて、じっと立ってられないほどでした。
抗うのも諦めて、アタシは後ろから吹き続ける風に身を任せた。
それこそ、カラダを斜めにしても倒れないのです。
アタシは強い風をまるでベッドのようにして飛ばされながらウトウトしてしまったほどでした。
強い風に包まれるようにして不思議と快適に感じた。寒かったけどw。
それから一軒家を買ってからです。強風で不安を感じるようになったのは。
修繕したポリカ屋根、そんなのが吹き飛ぶと困ると風が嫌になるようになった。
大事にしている庭木が折れやしないか心配するようになった。
市場では風の強い日は不安心理が台頭する、そんなことが言われています。
不便に思うこと。
特に春先、こんな三寒四温の陽気だと困ることがあります。
それは温度調節。
昨晩は思ったよりも寒かった、その前の晩は妙に暑かった。
服を脱いだり反対に襟を立てたり、なかなか調節は厄介です。
そしたら今夜はどんな陽気なんでしょう。
夜、出掛ける時にどんな格好にしたらいいのかと考える。
温度予報を見てもピンと来ない。どんな感じ?
すると、今日は昨日と比べてどうなのかしら、その比較をしたくなるのです。
昨日は肌寒かったけどどうだったかしら、と。
しかし前日と温度を比較しようとするとなかなかできないのです。
ヤフーの「天気」なんて昨日の陽気なんて出てきません。
過ぎた日のことは消えてしまう。
ヤフーのテレビ番組表にしてもそうです。古いものはどんどん消されてしまいます。
先週はネットでテレビのことが騒がしかったナと、先週の番組表を見ようとしても出てこないのです。
昔なら古新聞を引っ張り出して確認したりしたものですが。
だいたい気温なんて絶対の感覚でもありません。
相対的な比較はしたいものです。
「絶対音感」なんていうものがありますが、「絶対気温感」というのもありそうです。
温度の数値は目安にはなってもなんとなく伝わるものでしかありません。
ウチなど今日は日中は室温20度でしたが肌寒く感じてセーターを着てました。
アタシが感じる室温と温度計が叩き出す数字はまた別なのです。
毎日の定点観測は大事なことですがアタシの方は毎日着るものが違う。
百葉箱(ひゃくようばこ)なんてのを思い出す。アヒャw。
風が強かったり乾燥していたり、色んな条件でカラダの感じ方は違います。
だから昨日と比べたりできると過ごし方が想定できるのですが、前日の数字はなかなか出てこない。
前の日や先週と比較しようとしても、普通の天気予報は終わった日の天気がなんだったか、気温がどうだったかを教えてくれないのです。
先週の気温が分かるサイトはないものかと思った。
https://weather.goo.ne.jp/past/
ずっと不便に思いつつ漫然と調べもしなかった。
常識、惰性、そんなことから新たな習慣に踏み出さなかった。反省したいw。
なんだ、ちゃんとあるではないか(笑)。
とっくに活用している人もいるかも知れません(笑)。
少なくともテレビの天気予報なんかはそうでしょう。いつも今日のこと、先のことだけ。
考えてみると「天気」って刹那的というかその場限りの捉え方をするのが一般的なんでしょうか。
その時だけ、その日、明日や一週間を知る、それでいいと思われているようです。
ちょっと納得できないところがある。
なにしろ地球環境、気候変動にしてもそうだからです。
将来的な予測というかあてずっぽというかww、そんな予言じみた話は出てくるんだけど、これまでのトレンドがどうだったか、それはあまり論じられません。
まあ「三十年後には世界の平均気温が3度上がる」なんて、根拠もへったくれもない話ですが。
そんなに世界の環境が気になるならまずウクをやめさせるべきなんですが。
そういう矛盾を無視して地球環境だの持続可能性だとの教条的なことを言っている。
何様でしょうか。
狂ってるとしか思えません。
天気予報では「明日は肌寒いからセーターが必要でしょう。」なんて言います。
これにしたってアタシはなんだか違う気がします。
もし言うなら「肌寒く感じる人もいるかも知れません。」でしょう(笑)。
そしてせいぜい「昨晩とても暑く感じた人は差を感じるかも知れません。」です。
感じ方はひとそれぞれです。
白人なんかは寒さに鈍感と言われます。
セーターを着るか我慢するかは判断は人それぞれがやることです。
前の冬は「トックリセーターを着よう」「ヒーターの温度を下げよう」なんて言ってた欧州。
アタシは耳を疑ったものです。
このスローガンの異常さが分からないのか。
ロシアに戦争しかけてガスを輸入ボイコットして、挙句にノードストロームを同盟国アメリカに破壊され、市民らは凍えることになりました。
白豚どもは寒さに平気だったのか、どうか。
それでも、フォンデアライエンなんかはヌクヌクと暖房の効いた部屋にいたのですw。
子供の時分には「衣替え」というのが半ば強制的にあったものです。
季節が変わったら夏の制服に変えることになっていた。寒ければ下にセーターやカーディガンを着たものでした。
それこそいつまでも冬服でいたらそれとなく注意さえ受けたものです。
「お? まだ冬服かい?」なーんて。
こっちも照れ笑いして「クリーニングがまだなんです。」なんて言い訳した。
しかしそのうえで下に何を着ようがそれは自由だった。モモシキでもなんでも着てよかった。
こういうことを思い出せば今はどうなのか。
自分で判断することが許されない世の中になっている気がしてなりません。
これからまた盛夏に向けて「熱中症に注意」なんて繰り返されるんでしょう。そうして注意してる気にさせられてやっぱり熱中症になってしまう(笑)。
結局、こういうのは自己責任でしかないのです。
欲しいのは判断のための情報であって注意喚起ではない。
そーいやコロナ・パンデミックもそんな言い方がまかり通っていた。
「このままでは第九波になる。」って。
「マスク」の話、いったいどういうことなのか。
「政府の方針で個々人の判断に任せることになりました。」なんて今、あちこちでアナウンスしてますが、いったいどんな根拠なのか分かりません。
その「個人の判断」とやらの指針が示されることもない。
「マスクしてれば感染しない」ってのが間違った認識だと認めたからなんでしょうか。
それとも、「マスクしなくて感染しても症状は軽い」ということなのか。
あるいはもうコロはいなくなったとか(笑)。
「政府の方針」って、そもそも強制でも何でもなかった。アタシはずっとマスクはしてませんでした。
バカらしい。くだらねえ。アタシは一度も買ってない。
そもそもこんなことを主導しようとする連中の動機は何なのか。
カネです。
コロをいいネタにして自称医療関係者、よく知りもしないくせにカネ目当ての連中が偉そうに出張ってきて発言力を振りかざしたのです。
まだわからないのか(笑)。
根拠もないことがまことしやかに流布されていたのです。
感染症の専門家でさえコロの中味が完全に分かっているわけではありません。
場当たり的な対応しかできなかった。
そんなパニックに乗じて自分への利益誘導、せっせとデマ同然の妄言を吐きまくった。
酒飲むと感染するからと時短なんかやらせてカネをばら撒いていた。
そうして急場しのぎの、誰も責任など取らない得体の知れないワクを打たせた。
そうして「マスクするかしないか」、これにさえ発言力として介入してきた。
もはやこういうことは日本人が付和雷同型であるということではありません。
人から考えることを奪おうとする傾向がある。
河野太郎、お前はゴキオロギ食に補助金を出している政府の立場を説明してみろ。
政府が人に無理矢理ゴキオロギを食わせようとしているからではないか。
我が国の酪農を潰し、コメを遺伝子組み換えにさせ、我が国の農業を潰してわざわざゴキオロギに誘導しようとしている。
それはグローバリストたちへ成果を誇るためです。
それはデマでもなんでもない。
我が国の国民そっちのけで米欧の覇権主義に迎合して海外に無駄なカネを配っている。
おうぞどだいじに
